ちゃぶ台

A is for Anime.

だーやま百景

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OP入りのタイトルが出るところ、毎回景色が変わるのがいいですよね。その後もつぎつぎと現れてくる景色たち……背景美術に限らない、水、花、人、その動き。それらはただ並べられることで繋げられているわけではなくて、

こんな感じで一瞬、重なっては、次の景色へと切り替わったりする。

ふむ、このオーバーラップというには急峻な変化で重なるやつの気持ちよさ、どっかでみたことがありますね? しかも同じ浅香監督作品で…………

 

 

モンタージュ

漫画における時間の構造がアニメ化で保たれるかどうか……というとかなり無理っぽいけど、漫画原作アニメっていっぱい作られてきたし今もドシドシ作られている、その中には実現できてそうなのものもある気がしています。

でもちゃんと考えようと思うとやっぱり難しいですよ。16:9の画面を紙面に見立ててコマを並べてみても、うーん、それは……たんに漫画を画面に表示しましたというだけのような? 

一方でちゃんと映像として作り込まれたもの、例えばカレカノ最終話などは、しかしこれらをみたときに「漫画だ!」とはあまりならない。漫画を作っているのではなくて、漫画を素材にした映像を作ってるんだから不思議なことではないというか、当たり前ですね。

 

SHY 1話

こういう、上にレイヤーを重ねるようなやり方を見ることも増えてきました。漫画っぽさを志向している……かどうかは定かではないのですが、着想を得たのはそこでしょう。2枚目などは、いちど全身を映しておいて、その後に顔のアップを重ねておくわけで、並べるのは鉛直方向、というか時間軸方向でもいい。一連の流れからある瞬間だけを取り出した画像について、時間軸上に再びプロットするようなことをやっているんだから、自然ちゃあ自然です。ボイコミとかみてても見つけられるわけですね。

【総再生数900万回突破】『サンキューピッチ』阿川先生動画まとめ

たぶん、どうやら、キモは「連続してないこと」なんじゃないかと思うんです。いや、「時間的に分けられたものを、空間的に並べること」でしょうか。ふたつ以上の、ある瞬間の風景が並べられることで流れる、とびとびの時間。それを繋げるのは会話だったり、共通のモチーフだったり、よりモノ的には紙面そのものが媒介してくれます。並べられたふたつの関係が意味を生む……というと、アニメと漫画、それぞれの「モンタージュ」の形として現れているのかもしれません。

 

 

リズム

個人的に、そんな漫画っぽさがうまくアニメ化されている気がする『山田くんとLv.999の恋をする』、全然試している風に見えないくらい何もかもが上手く行っているのですが、実験的な演出をしていたことは監督も語っているところです。

mantan-web.jp

序盤は、登場人物は多いわけではないのですが、世界観が広がっていて、不思議な感じがしました。世界が広がっているけど、キャラクターの視界が広いわけではありません。そのギャップも面白く感じたところの一つです。アニメ化するために、原作から情報を得ようとするのですが、情報がそんなに多くないことに気付き、それでも世界が広がっているところが、すごいと感じました

情報がないことと世界の広がりを結びつける着眼点が流石ですよね。

でもまあ、わざわざ情報の欠落したところを作る目的は、視聴者の想像する余地を用意するためとすれば、理解しやすいです。ここのちょうど良い設計が固有の体験の豊かさ、「世界の広さ」を生み出します。アニメに限らず、どこまで説明をするか、どこまで視聴者の想像力に預ければよいかについては、おそらく常に悩まれていることでしょう。

 

『山田999』が面白いのは、この情報を削ぎ落としたところの余白を、とにかく小気味良いテンポを目指して構成しているところです。

山田が住んでいるアパート、茜が住んでいるマンションなどの外観の設定は一応ありますが、ほぼ見せていません。コンビニ、大学の外観も出てきません。

原作でキャラクターが住んでいる場所などの説明がほぼありませんし、この作品に合うんじゃないか、と実験しました。ほかの作品でもやったことはありましたが、ここまで徹底してやったのは初めてです

具体的な例について見ていきましょう。

Lv.01 これだからっ!ゲームする男なんて!!

山田999名物「テンポのいい場面転換」です。居酒屋を象徴するものとして、看板やビールをテンポよく段階的に映し、場所が居酒屋に移ったことをさらりと説明しています。背景の居酒屋と、看板、そこに書かれた「ぼった」という文字。アニメ特有の素材の階層構造が上手く活用されていて、映すタイミングをずらすという発想の容易さがありますね。

「ぼった」と看板、分たれたふたつのものの間……と意識されるように、ここには「間」が生まれます。素材と素材との間が、「間」として視覚化されている……アニメの階層構造が、時間的に厚みを持つことになります。

Lv.02 そろそろボス湧きの時間なんで

「ここは居酒屋である」という説明を削ぎ切ったところで、ひといきに居酒屋まで移れば済むのに、あえて間を作っている。となれば、やはりここで特に意識されていることは、テンポを良くすること……心地よいリズムを作ることです。当たり前ですが、削ぎ落としただけではテンポが良くなるわけではありません。適切な量の情報を、適切な時に置く。時間的な構造としての仕上がりのために、わざわざ間が挿入されている。

音MAD的かもしれない(yith『おはよー!』

階層構造をリズムとして構成することで、空間を時間的に扱う、階律のモンタージュ……しかし、ここで使われているのは、アニメに普遍的にある構造なのです。

 

 

浮遊

さて、しかし、この手の手法は実はよく目にされているものではないかと思います。

ちはやふる 第五六首

こういう技法の翻訳というか。少女漫画ではよく見ますよね。

単に切り返すのではなく重ねることで、こキャラクターの内面をたっぷり映し、滲ませるワザ。「レイヤーを重ねる」というところだけ取り出せば、他のアニメにおいても見つけることは珍しくないです。少女漫画的なトーンの存在もあいまって、ときめきの雰囲気、ふわふわキラキラした感じが良く出るので強力ですよね。

ふわふわでキラキラ

そう、ここには「ふわふわ」という浮遊感があります。重ねることて生まれる間は、過去時点で画面いっぱいに敷かれている"地"に対する距離、空になっているふわっとした距離としても感じられるのかもしれません。

 

浮遊、そして落下。そこには浮力やら重力やら、様々な力が想像されます。

わたしが惹きつけるあなたからの引力。

まわりに少女漫画のトーンが満ちることで得られる浮力。

過去がこちらを捉えようとするときの重力。

山田と木之下の周囲を満たす幸福感の中で、ヒールがふわっと前景に現れる、それは落下していて、やがて地面に落ちる。これは1話での出会いの瞬間であり、いうまでもなく過去にあります。現在から跳躍して、過去へと着地するこの表現、この軽やかさ。少女漫画の伝統と、リズムを構造するものとの一致が感動的です。

 

 

アニメ監督Lv.999が時を接ぐ

『淡島百景』は、時系列としてはバラバラの、淡島歌劇学校を中心とした断片的なエピソードが複雑に繋がっていく構造となっています。

そのため、ある出来事について、多面的な見方を取り出すための工夫があります。特定のエピソード単体では見えづらくとも、エピソードとエピソードの重なりにより特有の景色が生まれ、彼女たちの在りかた、見えかたが様々に移ろう……その変化を、一話の中のエピソード構成で提示しているのです。

過去と現在それぞれの登場人物たちが直接交わることもあれば、そうではなく、現在の淡島と過去の淡島をただ並べ、暗示的にリンクさせることもあります。特に後者においては、直接繋がりがないぶん、別の時間における独立の出来事が繋がることの驚きをともなうため、淡島という場所の特殊さ、それを生み出している構造が強く示唆されることになります。

じわじわと存在を強める罪

田畑若菜の頭の中を覆う木の枝

 

そのマクロな構造を、ひとつのエピソードのなかのミクロな構造として持ち込むときにどうなるのか。いちエピソードの中で断片たちを繋げる方法。ひとつはカットバックによりモンタージュを作る基本的なやり方であり、そしてもうひとつ、やはり「重なり」も使われています。

ひとり、寮のベッドで寝ているとき。一緒に淡島にくるはずだった人を想って伸ばす手が、ふたつの景色を繋げている。友人とのかつての時間、願っていた未来が、どちらもない現在に重なって映ることの喪失感。時間的な厚みをうまく使った表現だと思います。

 

 

結論

なんかすでに集大成のような作りとなってしまった『淡島百景』ですが、繰り返すように、これはアニメに普遍的な構造を使ったワザなのです。実際、淡島と山田999で完成度を比べることはできず、同じ構造からそれぞれ違った価値が出てきているように感じます。

これはシンプルに空間の広がりの話なのです。令和のアニメにおいて、画面内方向に写実的に立体する空間はもはや狭すぎて、おれの目には画面時間軸方向へと歩み出すアニメキャラが現れようとしている……!

となれば、エスエフでギャグですよ。今こそギャラクシーエンジェルみたいなやつをやる価値があるんでないでしょうか。

やってくれ〜。

 

 

 

余談:科白外台詞

声に出される科白とは別の文字の台詞、漫画的に言うならふきだし外の文字、を使うということも、このアニメが多用していた手法のひとつです。説明を圧縮して、全部台詞で喋ることによる冗長さが生じないようにしています。

Lv.9 ギルドの一大事だよっ!!

上のシーンでは、瑠奈(耳当てしてるめちゃめちゃかわいい子)がギルドに新しくメンバーが加入することに対する不安について話されていて、ココアについての会話は声によっては交わされません。「期間限定だって」とか「ココアいただきます」という声によるやり取りが入ると、会話のテンションは連続していなかったことでしょう。

リズム、そしてテンションが維持されつつも、しかしココアについての会話はふきだし外で行われています。最初はぷりぷりしていた瑠奈は、お礼をいいながらココアを受け取れるようになる程度には落ち着いて、瑠奈の態度の変化にしっかり反映されています。

音声として交わされている本筋のやり取りと並行してあるこれも、やはり階層構造のひとつであり、豊かな響きがありますよね。

 

 

 

『Fivesta』の堀口さんの仕事のこと

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ナナニジの堀口さんの仕事を真面目に喋れる人間がぜんぜんいないので、本当に仕方がなく、俺ごときが喋らないといけないんですよ。

堀口さんが書き下ろしてくださった!エモい!で終わっていいわけがないんですよね。もちろん、大変にエモーショナルなのですが、ただおひとりにだけ負担がかかっている現状は健全であるとは言い難いのです。何が起こったのか、これから何が起こるのか、おれたちファンはよく考えていたほうがよい(何も起こらないかもしれないが)。

 

animestyle.jp

流石にナナニジさんのファンが読みこんでないことはないと思うが、念のため……

 

 

『Fivesta』における堀口悠紀子の仕事

①キャラクタービジュアル

あの超可愛い衣装が堀口さんによって描かれないのってマジで本当にありえないため、正直この1枚だけで報われたところがあります。ジャケットイラストのようなアーティスト写真然としたものではなく、波や左下の足など、ある運動の一瞬を切り取った時間的に幅のある要素が構成されていて、月刊ニュータイプでの連載に近いのがとにかく嬉しい。16thシングルから密かな流行があるのでしょうか、真上からの1枚は先頭を歩く瀬良のウキウキとした指先が楽しく、ひとり空を見上げる西浦*1も妄想したがりが暴れ出してしまいそうですね。

そして真上から見た時の、まるいスカートの印象に合わせたポピー、その添えられ方といったら! 花はそれだけで季節や、あるいは生花がいきるスピードなど、時間を感じさせるものです。そしてポピーの立体的なフォルムは、写真が存在する平面の“上”に添えられているんですね。この花の立体は、平面の写真との間に仮想的な距離をわずかに作り出します。そのわずかな距離を視線が行き来するときに生じる一瞬によって、彼女たちが撮った写真たちが質量を持ち始め、私たちはたちまちシャッターを切る前後のことを想像してしまうでしょう……たった一瞬から、こんなにも幸福な時間の広がりがあるんですね。

堀口さんは、少女っぽさも滲ませた絵で最も威力が発揮されるので、こういう仕事をたくさんふって欲しいものです。

 

②朗読パート脚本監修

ライブ前の5人が海で戯れている様子。同じシチュエーションを描いていると思われるKVを穴が開くほど見ていたファンにとって、脳内で堀口作監アニメは自動的に展開されたことでしょう。2期生唯一のアニメ作品である『曇り空の向こうは晴れている』MVを引きつつ、朗読直後に曇晴が始まって泣けるよね。曇晴始まる前から泣いてたが……。

椎名桜月が大まかに書いたものを、堀口さんに監修してもらったらしいです。何事。

大体の大枠を椎名が受け取り、それからある程度形にしたあと、メンバー全員で細部を詰めていったとのこと。最後の最後で堀口さんの監修もあった*2のか……な?

 

③独白パート脚本

堀口悠紀子の脚本というだけでも驚きなのですが、キャラの設定から起こしたらしいところでひっくり返ってしまった。

特に大きいところでは以下の設定。

・西浦そらは片親

・氷室みず姫が斉藤ニコルに憧れて22/7に加入したこと

・瀬良穂乃花の中学デビュー

よくよく考えると、これらの設定がいままで存在していなかったということにも驚きます。てっきり、これまでの人生の略歴、家族構成、アイドルになった動機くらいは、ざっくりと秋元康が用意しているものと思っていたのですが……2期生キャラは、メンバーのプロフィールを強く反映したキャラであることは周知の通りですが、今回メンバーとは異なる人生が設定されて初めて、ようやく「キャラクターが個を持つ」ことになりました。なんでこんなキャラ設定ひた隠しにするんだろうな〜と思ってたんですが、無かったからだったんですね。

マジでこんなになんもない状態で計算中をやってたのか!?

 

 

「独白」というパフォーマンスについて

定期公演での定番パフォーマンスに、自身がアイドルになるまでとアイドルになってからについてを語るというものがあります。

これはどうしても人生についての話になってしまいます。キャラクターに人生背景を語らせる……と説明っぽくなってしまいそうなところを、すでに存在する独白というフォーマットを使うことにより自然な形で披露する。今までやってこなかったのが不思議なくらいピッタリはまった演目です。グルーボッツとか使わなくても、朗読形式で十分なのですが。

1期生と比較してめちゃくちゃ外向的な2期生にとっても、アイドルとファンが関係し合うライブで明かされるというのは、よいタイミングだったと思います*3

 

 

堀口悠紀子がテキストを書くことの重たさ

堀口さんの22/7における仕事は、キャラクター原案、キャラクターデザイン、作画監督……と、キャラクターをビジュアル面から支えるものになります。そんなわけで、今回脚本としてクレジットされたのはかなりの衝撃でした。

堀口さんのキャリアにおいても、テキストの仕事は見つけられていません(あったら教えてください……)。ただ、監修と似たようなことは『あの日の彼女たち』でもやっています。若林監督が出したアイディアについて、そのキャラらしさという観点からジャッジするような役割、テキストの領域でのキャラ作監です。

に限らず、キャラ作監とは本質的には似た仕事だったのかもしれません。作監修正には、意図を伝えるために文字が添えられることもあるのですが、これはキャラクターらしさを表現するテキストに他なりません。

 

しかし、『あの日〜』的なアプローチ……「その人がどのような人であるか」を考えることと、「その人がどういう人生を歩んできたか」を考えることとは、その人への介入の強さが全く異なります。いわずもがな、今回の独白のようなキャラクターの人生をテキストで設定することは後者にあたり、キャラクターの根幹部分への強い介入があります。

計算中記事西條ー堀口関係生熱烈応援記事でも話した通り、作監仕事に臨む時の姿勢として、堀口さんは過度な干渉を避ける傾向が見られます*4。キャラ原案を担当していないキャラクターとあっては、さらに干渉し難さがあったと思います。他の方が原案を担当されている、ビジュアル面ですら原型に関わっていない個人について、その人生の設計を引き受けることは簡単ではなかったはずで、実際、椎名からの相談も一度断られているようです*5

 

それでも引き受けてくださった背景には、やはり椎名たち2期生の熱と、そしてその熱が堀口さんに集中していたことがあります。

キャラコンテンツとしての22/7をテキストから支えてきた人といえば、例えばアニメのネームを担当してくださった宮島礼吏さん、あるいは、ニュータイプ連載の小説や『音楽の時間』を書いてくださっていた白坂英晃さんがいます。

そもそもキャラプロフィールは秋元康が作っておくべきところのはずでした。なぜ、シナリオのプロに頼まなかったのか……予算的な理由を除けば、キャラクターとともに歩んできたひとが堀口悠紀子しかいなかったからに他ならないでしょう。

想像してみてください……メンバーたちがキャラクターとともに歩んできた4年間。バラエティ番組がなくなり、MVもとうとうリアルメンバーに変わってしまった今、いよいよ活動の場が無くなってキャラとキャストの繋がりが立たれようとしている彼女たちが、キャラクターとのこれからのために今までを振り返るときに手がかりにしたもの。そこに常にあったのは、自分たちの他には堀口さんの絵だけだったこと。一度断られたメンバーたちが、それでもとお願いするために撮った5人のメッセージ動画と、そこに込められたであろう切実さ。それに応えるしかなかった堀口さんの覚悟。

そして、メンバーたちがこの機会を逃してしまっていたらどうなっていたのか……は、想像したくはないですね。

 

 

独白後、これからのこと。

椎名や相川の語るように、公式設定ができたことにより、今まではメンバーたちのガワだったかもしれないキャラクターたちが個として立ち始めたことは大きいです。

そして、これからの堀口さんの仕事にも大きく関わるものであることは間違いありません。ジャケットイラストに映る2期生たちには、独白で語られた人生を持つことになります。見る私たちはもちろん、彼女たちを撮る堀口さんもそのことを意識することでしょう。

相変わらず、キャラコンテンツとしての22/7の未来は明るいものではありません。「デジタル声優アイドル」「アイドル×キャラクター」をまだ掲げ続けているということだけを根拠に期待しているだけ*6で、瀬良たち2期生に後輩が現れるのかどうかすら不透明。それでも自分が正気(正気です)のまま堀口作監幻視眼で見続けることができている(かなり正気です)のは、2期生たちと一緒で、堀口さんとの確かな歩みを辿っていけるからです。

『Fivesta』は、そこに新たな形の跡を作ってくれました。私には今まで想像すらできなかったほどの新しさ、そしてこれを呼び出した5人の熱の眩さを目にしては、どうしてもこれからに期待したくなってしまう。そのこれからにおいては、しかしそれでも、堀口さんがライターとして関わることには慎重になって欲しいと思います。

今回、堀口さんのテキストがうまく仕上がったのは、2期生のこれまでの活動、計算中やキャラクターライブでの彼女たちの振る舞いがあったからというのも大きかったのではないでしょうか。らしさのための作監修正に素材が必要なように、やはり、堀口さんの立場からもキャラクターが個として立っていてこそ豊かに動き出してくれているのです。

 

お守りとして持って行った曇晴Animation note。ご利益ありすぎ。

 

*1:そして西浦そらの素晴らしい返歌

*2:椎名桜月 インスタライブ(2026/5/26)

*3:初期8人のキャラはアニメの個別回で語られるのみで、その過去は公には共有されていないことになっている……と思いきや、バラエティ番組でめちゃくちゃイジることにより共有されてしまう、もしくは、共有されていることの確認をしてしまっているんですよね。佐藤麗華回ラストのサイコロのカットは誰が撮影したのかとか、丸山あかねの眼鏡の裏の素顔とか、キャラクター本人に対してしっかりイジっています。見たことねえやり方……

『ハッピー☆ジェット☆コースター』内容紹介VTR直後の過去に触れづらそうな三四郎小宮
(アニメ最終回&Season2開始 全部まとめて番宣スペシャル!)

*4:といっても、こだわりの強さはあちこちに見られる。仕事となると(結果的にでも)それを押し付けてしまうことに対するおこがましさみたいなのを感じてしまっているんだろうか……。

*5:椎名桜月 インスタライブ(2026/5/26)

*6:だけじゃなかった! 斎藤ニコルも「予感」を語ってはいました

最近みた“自然”なアニメの話

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学祭を訪れた中学3年生の錦上マイカ、令沢葵が、蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのドキュメンタリーを撮るというフォーマット。ニジガクみたいな感じで、適宜MVパートが挟まる形式かと思ってたんですが、最初と最後に2曲あるだけだったのは意外でした。

そう、ラブライブのライブパートというのは、結構MVチックなんですよね。パフォーマンスはそこにいる観客にではなくカメラを向いていて、そしてマジカルな演出に満ちている……と、そうではなくて、今回はインタビューに徹しています。「日野下花帆とはどういうひとなのか」という質問に対する答えが、いま、そこにいる、錦上に向けた言葉がじっくりと撮られる。そこから得られた各々の日野下像が、錦上の中でゆっくりと繋がっていく時間に必要なのは、過度なマジックによって分からせることではなく、徹底した自然なのです。最後に披露されるあのステージも、スクールアイドルクラブである彼女たち自身のためのライブであり、だから円形舞台の閉じたステージだったんですね。

 

自然。

 

自然か……。

 

 

最近みたアニメの自然の話

さいきん、モンハン内で撮影した短編映画が出てきてちょっと話題になりましたね。

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これは、アニメなんですかね……まあ、アニメに分類する人がいても自分はまったく違和感を覚えないだろうな、と思いつつ、どっちかっていうと実写映画のような作られ方をしているかもしれません。ロケーションがゲームの世界で、俳優がゲーム内アバターの身体を持つ映画です。

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精細な描画を可能にした技術の進歩だったり、現代の人がゲームに費やす時間が増えたことだったり、もうひとつの現実として語られることも多いゲームの世界を撮る。『Flow』がどことなくゲームっぽくみえたのも、これらと似た構造を持っていたからなのかも。

あるいは『アバター』よりも“自然”を映しているのかもしれないこの手法は、映画ではなく「実況動画」という意外な形で現在普及しているのです…………

 

じゃなくて、今回は“自然”について喋りたいんでした。

 

 

それでもGBCのルックに慣れたって言ってる人が憎い……

ド流行りしてたGBCの、イラストルックな物体がにゅるにゅると動くことについて文句をつらつらと喋ってしまった黒歴史があり、反省したりしなかったり、しかし変わらず今もずーーーーっと悩んでいます。

o-zo.hatenablog.com

とはいえ、和解は進められつつあります。

なるほど、「生(なま)っぽい」というのは言い得て妙です。自然であるとは言ってないんですよね。ぐにぐにと滑らかに動くことの生っぽさ、軟らかさは、なんなら自然とはかけ離れた「極めてなにか生命に対する侮辱」と同居することだってある。そもそも生きることというのは食事や排泄、生殖とかとかとか、そういうねっちょりしたこととは切り離せないものなのでした(GBCがそういうアニメで、それを表現するためのルック設計だったのかは、わかりませんが……)。

と、ここでピーンときました。おれはここに不自然さを感じていて、それはなぜかというと多分、「3DCGで絵を描く」という捻れからきているのではないか……

 

 

そもそもここで言ってる“自然”てなんなの

でしょうか。めちゃくちゃ曖昧なまま喋ってたので、ちょっと考えてみます。テクスチャとかではなく、モーションの話です。

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セルルック、イラストルックなCGでは最終的には平面な画の整合性のため、ところどころで立体としてはブッ飛んだ形状に調整されます。人間の立体を二次元に翻訳した絵柄や、それを元に高度に記号化されていったものを、再び3Dで表現し直すときに生じてしまう歪み。それを緩和させる操作の中においては、CGの振る舞いはもはや画材のようと言えるでしょう。そう、「3DCGで絵を描いている」ということになるわけです。

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言わずとしれたスパイダーバースやTO BE HERO X、昨今のホヨバの勢いもあり、今やイラストルックなCGは、CGアニメーションにおいて覇道を行きつつあるように思います*1。このスタイルがとくに威力を発揮するのは、やはりゲーム(グラフィックが立体として表現されているもの)的な質感と作画アニメ的な質感を繋げるときです。同じ質感であるモデルは共通しているから、操作可能なゲームパートから、のびやかなアニメーションのムービーパートまで滑らかに繋がる。特にキャラクター商売が重要なソシャゲにおいては、まるでアニメキャラを操作するような体験が得られるこのスタイルは強い訴求力があります。

 

ふむ……しかしそれは、3DCGの得意とするところなのでしょうか。

 

 

CGの仕事

って聞かれて、最初に思い浮かぶのは、

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やはりこんなかんじのやつで、計算結果をグラフィカルに出力することです。

シミュレーション特有の質感。入力から出力まで自動的で、その間には人の手が入らない、そういう意味での自然さ、フレームワークという作為のなかで自律的に発展していく自然さがあります。

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そして、計算結果としての自然さであるならば当然、どういう問題を解いてこうなったのかということを思った方がよいでしょう。自分はこういうとき、望ましい形、妥当な結果をあらかじめ予想していたりするものです。よくわかんない結果がでてきてしまったら、パラメータとか近似条件とか見直したりして、そして「なんだか整合性が取れてそうか……」となったところで初めて、驚きを持ってこの結果が受け入れられる。そのため、往々にして「それはそう」みたいなことになってしまうわけです。こうして作られた入力と計算と出力の関係は再現性を持ち得ます。この「再現性を持ち得る」という質感が、CGアニメーションのひとつめの自然さであると思います。

もうひとつ重要な性質として、このようなCGアニメーションは、ある任意の時刻の瞬間を抜き出すことができます。絵と絵の間を錯覚させることで動きを作る作画によるアニメーションではなく、ある現象の時間発展を描く、充分滑らかに連続しているアニメーションとして作られている場合の話になりますが、この意味でも人の作為の及ばないところとしての自然に思いを馳せてしまいますね。

 

高性能な物理エンジンの普及もあり、シミュレーション的な動きを使うアニメーション作品はいっぱいあります。

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そこには、らしさのための作為がなく、私たちは一貫したシステムやルールが機能している気配を察知します。この時モチベーションになっているのは、シミュレーション結果への興味であり、カメラの態度は観察に近い。被写体とカメラの概念的な距離は遠くなり、干渉は少ないと思われます*2

 

 

芝居とカメラの距離

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これらはいずれもブレンダーで製作されたアニメです。ブレンダーでは(大体の3DCGソフトではそうでしょうけれど)空間内に仮想的なカメラを持ち込んで、動いている物体を"撮る"ことができます。ものを動かす工程とカメラワークを付ける工程が明確に分離されていて、役者の芝居とカメラワークとを合わせて演技として演出する2D作画とは、かなり異なった作られ方をしていますよね*3

動かすという工程のあとに、撮るという工程がある。それを意識したかたちとうごきの作り込みがあるものの、カメラと被写体の距離はやはり保たれたままでしょう。一方で、2D作画的な動きの成立のため、被写体の形に手を加えること……その画角でのみ成立する形に変形させることは、動かすことと撮ることの距離を縮めることになります。

 

そして今回は3DCGアニメーションの話をしたいのでもない。メインは自然さについてなのでした。

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多くの時間を3DCGの身体で活動を続けてきた蓮ノ空SICにとって、映画が3DCGアニメで描かれたということは、それなりに強固な意味を持ちます。加えてハンディカメラでのドキュメンタリーを撮るというフォーマットとなると、被写体としての彼女たちは最も自然な形であって欲しいものです。

モブも3DCG

蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさんも3DCG

もちろん、予告にもある通り、映画本編にはコミカルなシーンもあるわけですが。こういう見栄的なところでアニメ作品っぽさが担われつつも、映画内では地続きにひとが存在できているように思いますし、現実のファンたちの関わり方としても3DCGを介しているので在れば、そこはきっとリアルであるのでしょう。

 

 

ヌルヌルした自然

それとは別に気になったことがもうひとつ……『なびき』です。

このような感じで、インタビュイーが日野下観を語るほとんどのシーンでは、(おそらくアフターエフェクトによって)髪や服がなびくそこに風がある。同じ風の中にインタビュアーがおり、その風を伝った静かな感動があることを伝える。正直に言って、なびきの質*4には感動が全くともなっておらず、ここには「動いていること」ただそれだけがあります。

絵の人が動画の端っこに確固とした居場所を築き上げていたり、ほとんど全てのソシャゲでキャラクターの身体はヌルヌルとゴージャスに動いていたり。かつてはそのヌルヌルさを批判する向きもあったようななかったような気がしますが、Live2D的なものはもはや身近なものになりました。ヌルヌルした動きを自然っぽくチューンすることと、人間たちがその動かし方を見慣れることとがちょうどバランスをとる時が、技術の進歩により「絵が動く」時代がとうとう来つつあります。

そんな時代には「動く絵」というものがあるのかもしれません。いかにリアルかということが問題にならない、絵特有の物理による動き。虚構が虚構としてリアルにあることができる空間。

 

当然、このような技術が当たり前になってきた昨今では、ただ動かせるところを動かすだけでなく、「動きの質」を追求する向きはもちろん強くなっています*5

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しかし、それでもやはり感じるのは、動いていることただそれだけの価値の強さです。

情報が増えることのゴージャスさがまず何よりも強いです。例えば、演劇を扱ったアニメ*6においては、実写映像を参考にした生っぽい動きを採用することが多くあります。「ぬるぬると動く」ということにボディーを感じてしまう、求めてしまうのは、人間の性なのかもしれません。

また、動き(その作画スタイル)が記号化しつつあることも追い風となっているように思います。アニメ(もしくは特定の作画スタイル(中村豊とか))を引用してアニメが作られるようになっています。先にあげたセルルックCGも、セルアニメ的な表現を目指して開発されたスタイルなのでした。

先鋭化していく表現は、やはりどうしても楽しいもので、アニメ(ーション)を追ってる人間としてはやはりエッジを、そしてそのさらに先へと到達を目撃したいのです。それはそれとして、「動き」についてよく考える時間は作っておきたいですよ。

『デスティニーチャイルド』TVCM-動く仲間、動くココロ-

 

 

アニメの未来はゴージャスに明るいぜ!

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おしまいかもしれんね。

 

 

 

 

 

 

あとで考える

Live2D的なものと、さいきんのセルルックCGとに感じる違和感が似たとこにあるような気がしたんだけど、全然まとまらなかった……

 

自律的に時間発展していく…みたいなとこで頭をよぎったやつ

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なんというか、時間発展を問題にする時の流動的な動き、そこから想像される粘っこさが、不気味さとの相性が良いのだと思う。キャラコンテンツにおいて、制作側が売り出したい“自然さ”とこの不気味さがあんまり噛み合っていない印象が個人的にどうしても拭えない。

 

アニメキャラがダンスを踊る風潮

そもそも人が真似しやすいような振り付けを考える…というところに、アニメと現実の短距離な繋がりの構築を感じて面白い。

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完全に余談だが、ダンダダン2期EDはその文脈に乗っかってる上で完全空想振り付けなのがめちゃめちゃ面白い。

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他、最近見た

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聖書って映像化するとなんか文章の頃あった魔力薄れないか?

 

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鶏の墳丘と競合した。あっちは物語からも距離をとっているけど、こっちはシンプルなジュブナイルを描いている。

 

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実写参考やロトスコープの価値の正体ってなんなんだ……みたいなのがなくもない。リアルにかけるとかじゃなくて、それ特有の気持ちよさがある。

*1:これらを絵っぽいタッチのモデルが動く〜くらいでまとめるのは雑です。

*2:実写においてもかっちょいい遠近感を出すためにセット等の造形をいじることは全然あるわけだが。

*3:どうだろ、近年はそれこそブレンダーで軽くレイアウト組む人がいるし、人によっては多分人体の動きを正確に構築して、それをカメラで撮った時の画を紙に投影して作画している人もいて、これとは何が違うんだろうか。

*4:「なびき」って特定のパーツ動かすとかじゃなくて、もはやエフェクトなんじゃないか……と思った、思ったところで「エフェクトアニメーターが真のアニメーター」みたいなツイート思い出した。

*5:動けば動くほど良い派もその存在感を強めていて、だいたいえっちなソシャゲです。

*6:『ワールドダイスター』や、26年春クールでは『レプリカだって、恋をする。』『入間くん』

最近みた輪郭線のないアニメの話

「線」は最も偉大な虚構かもしれません。

最初に絵を描いたものは、やはり描こうと思ったそれを線で象っていたのでしょうか。そうだとしたらこの全く厚みのないものをどのように見出したのでしょう。それと、それでないものとを分ける境界が、境界そのものが自ずと質量を主張したのか、そんなことがあり得るのか……。

そこにも世界の果てがあるね

線を手がかりにすることで、私たちの目は容易に形を見つけてくれるようになります。アニメーションにおいてもよく扱われるツール……というのでは控えめな表現になってしまいますね。線を扱わずに描かれるアニメーションを、あなたは一年に何度も見ているでしょうか。ある時刻の形が次の瞬間の形へと移ることの、その形ひとつひとつは線で明らかに定められている。私たちはいちいち境界を見つけることをしなくて良くて、形の変化や運動のみを問題にすることができるのです。

 

見るわたしたちにとっても描く方たちにとっても線という存在はなくてはならないものに近い。そして、それを限られた面積に敷かなければならない。そもそもは太さの無いもののはずなのに、線の効力を発揮するために十分な幅を与えなければならない。

もちろん線が邪魔者であるわけがない(疑うべくもなく最も偉大な虚構なのです)……のですが、よい線を引くというのは「工芸品」と言われてしまうほど属人性の高い技術です。絵なので、絵の上手い下手があるのは当然といえば当然ですね。

しかし制作がデジタル化された現代では、「ギリギリの細さにする」とか、「線色を影色にする」とか、線を後から加工することが容易になりました。アニメの商品価値が高まり、その生産が増しに増す今とこれからにとって、線の加工はとても重要なテクノロジーです。パソコンにソフトウェアを入れてしまえば使うことができ、そして使い方もインターネットに転がっていたりしていて、いろんなところからいろんな表現が生まれつつあります。

今回は、本来の極限まで細い姿を目指し、果ての方へと押しやられたアニメの線について喋ります。

 

 

 

悲喜交々を塗り潰す

アニメ存在を支えてきた線たちが、全く厚みを失うことがあります。

ヤマノススメ Next Summit 9話

一番外の輪郭線だけで包む珍しい例にはなりますが、こんな↑感じのやつです。面白いですね。キャラと色のイメージが結びついているので、これだけでも誰がどこにいるかとか、何に対してどうリアクションしたのかなどは伝わります。

こんな感じで、引きでキャラクターを描く時などは線の太さが問題になってくるため、パーツを区切っていた線を省略したりする。それは単に線で絵が潰れてしまうからという理由だけでなく遠近の表現としてもしっくりきますね。

 

絵としてのテイストがほとんど違ってくるため、こういう使い方もできます。

名湯『異世界の湯』開拓記 ~アラフォー温泉マニアの転生先は、のんびり温泉天国でした~ 11話

塗りつぶしたような質感で、正直絵として成立させるのは難しくなりがちだと思うんですが、注意を引いてくれる使い方です。キャラクターを成り立たせているパーツはほとんど溶けてしまって肌と髪のみ判別することができる。その情報の少なさのために背景からシルエットが浮いて、そこへ向かってみている人の想像がにゅーっと伸びていくような、温泉というシチュエーションなので、まあバッサリ言ってしまうとのぞいているような、そういった意識への働きかけがあり、秘湯でふたりという時間をよく演出してくれていますね? 湯気の中でのぼやけた視界としても妥当という感じがあります。

セル画を裏から撮影したこれに近いかも

 

さて。

上記のようなことを頻繁に繰り出していたアニメがありました。問題作ですね。でもデスゲームってものがそもそも死ぬほど面白くないので、挑戦的な作風はありがたい。

1枚目はキャラの数も多いし近いしと視認性を捨ててまでこの手法を選んでいて、2枚目はキャラクターのイメージとして出ているシーンと虚実の両方に渡って使っている。3枚目、これ誰だかわかりますか? 金髪ロングという特徴しか俺は拾うことができません。いろいろな不都合を飲み込んで採用していることから、どうやら根幹の設計としてこれを採用していることは明らかっぽいです。

 

嬉しいことはいくつかあります。

まず、塗りつぶした下に隠すことで注意を引けること。苦しいだとか悲しいだとか楽しいだとか、そういう感情が示されない、彼女たちに「寄りすぎない」映像にできるので、視聴者にもより観察者っぽい姿勢を要求します。デスゲームがあたりまえにある世界での少女の生き様を淡々と映す目的とは相性が良いと言えなくもない。

標準化しやすいのもいいですね。線色をいじればよいので、デジタルツールの発展もあって品質を安定させやすい。画力があれば「隠す」こともさらに微妙なニュアンスを攻めた表現が可能になるのですが、ままならなぬは商業の世界よ……。

 

あともうひとつ、しぼゆぎの特徴的な設定『防腐処理』との視覚的な接続をはじめとした、全体的なルックの統一です。

身体の中のものが空気に触れると途端に綿のようになる『防腐処理』の設定は、キャラクターたちをぬいぐるみのようなものにして死を軽くしてくれる、改めて指摘するまでもなく本作にとって重要な道具です。視覚的にそういった軽さのイメージを与えるので、監督もこの設定を気に入っているのではないでしょうか。

というか、この防腐処理をひとつ足掛かりとして、ルックを作っていったのではないかとすら思います。綿はそのふわふわのために陰影で形作られていて、この方法は輪郭線のない解けていってしまいそうな少女たちと視覚的な共通点が多い。

視覚的に印象が似る……つまり最も浅いところの印象では、生きた体と死んだ肉が同質になるということです。娯楽のために人が死ぬ世界での死の近さ、軽さがそこでは表現されています。これの嬉しいところは、「キャラクターの扱いが人形のようである」という記号的な領域とは別に、視覚的な印象という点からも世界観を支えていることにあります。強固な設計を目指しているところには好感が持てますよ。

死体と、参加者キャストがずらりと並ぶクレジット。

そんなわけで本作は、「刺激的なデスゲームを見せたいのではなく、デスゲームの存在する世界を見せたい」という目的を、このようにより直接視覚的に訴えかけるアプローチで実現したのでした。

エンタメにデスゲーム的な構造ってありがちなので*1、デスゲームものにするのではなく”デスゲームもの観察もの”にすることで連想されるものが多くなったのは良いとこかも……と思います。同じ日に『【推しの子】』が放送されていたのも巡り合わせですよね! とか言ってると考えさせられマスターになってしまうので言いたくはない……やっぱデスゲームって面白くないよ……

 

とまあ、色々考えてたんですが、インタビューで答えてましたね。

原作を読んだときに、ドガの「踊り子」の絵を思い出したんです。当時のバレエダンサーって、華やかな舞台の裏で過酷な現実を生きていたらしくて。ドガはそれを劇的に描くだけではなく、練習風景や日常を淡々とスケッチしつづけたんですが、本作もそれと同様に、少女たちが命を散らす瞬間を劇的にあおるのではなく、カメラがその場に立ち会い、彼女たちがどう生きたのかを記録するような映像にしたかったんです。

「死亡遊戯で飯を食う。」上野壮大監督×幽鬼役・三浦千幸対談 「少女たちの生死をドライに描く」

絵画志向だったんだ…………

面白いんですが、コンセプトアート止まりで絵としては微妙かもしれない…

 

 

アニメの光と影、形

そうなってくると、”動かすための絵”としての設計が必要になりそうです。そもそも現実には存在しない輪郭線が絵画の歴史の中でどう扱われきたのか……みたいな話(こういうやつ)は自分は詳しくなくてできないので、相変わらず最近みたアニメの話をします。

 

絵世界物語のオープニング、いいですよね。絵の中に入るという夢は、もちろん絵の中の世界を自由に動き回る様子を(大抵は)描いていると思います。アニメーションの本領です。

輪郭線に注目してみると、名作たちの雰囲気に合わせて線は色や形を変えてキャラクターの存在を支えていることがわかります。2枚目の日傘のやつなどは、線の代わりに色と色の関係から形を見せている。色……すなわち光です。

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動く絵画の、被写体のシルエットを縁取るのはやはり光です。線に頼らない以上、その輪郭をしっかりと照らしてあげなければ、背景の方にほにゃ〜っと溢れていってしまう。アニメーションを成り立たせるたくさんの絵、その連続性を意識した一枚一枚それぞれについて、最終的な出力を意識した線画を描かないといけなかったり、徹底した色彩設計が必要になってきたり……想像するだけで大変だあ〜

雨、雨合羽、透明なビニール傘のそれぞれを反射・透過する光

線があったところには、元通り(?)2つのものが緊密に接しているところがあるだけです。ここでは光が2つの間で跳ね返り、曲がり、身を削って透き通って、それぞれの物性を表現していて……という様子がデフォルメされています。ここに、境界に漸く近づいていくような意識がないわけがありません。

 

そして、そんな果ての果てを使って、果ての果てを語るアニメがある……

youtu.be

この見事な色彩設計で描かれる全能であったアメリの自我の芽生えと死……ブルーイに引き続き自我芽生えアニメにやられております。やっぱ芽生えたての自我の話がいちばん面白いんだよね。

映画の中でアメリが生きているのは、私と世界が分けられていなかった時代、世界が与えるままに私の中に入った刺激がそのまま喜びになっていた時代、箸が転んでも可笑しい時代です。

そんな芽生えたての自我が見る、剥き出しの喜びをどのように表現するのかというと……そう、輪郭線を取り払うことによってです*2

私と私でないものとが本質的に同じものであったとき、輪郭は存在していなかったのかもしれません。世界に満ちた光はアメリの行い全てを祝福します。世界が与えてくれるもの全てが輝いて見えることと、私が欲するもの全てを世界が与えてくれること。チューブ状の神にとってこの二つのどこに違いがあるでしょうか。

 

脚本にも、私と私でないものについての構造、アメリの”現在”のリアクションとは別に、それを俯瞰するナレーションの存在があります。

本人しか知り得ないアメリの内側のことを実況してはいるけれど、はっきりと明らかに異なる語彙、異なる声で語られるそれは、決してモノローグではありません。そのふたつが接しているところに、芽生えたての自我という繊細な存在が描かれるのです。

*1:あらゆるものに勝者と敗者がいて、そして最も大きな敗北のひとつは死(とされることが多いの)です。だからこそその構造だけ取り出すと面白くなくなると思うんですが……。

*2:これは『ロングウェイ・ノース』と『カラミティ』を経て仕上がってきたメソッドであり、この作品のために開発されたルックではない、というところも個人的にグッときます。氷の浮かぶ海や金を秘める大地の自然の美しさを映すための仕事が、この極めて主観的な世界、その全てを描くことに使われている、使うことができているということ。メソッドそのものが確かに世界の表し方を担っていることを意味しているように思われるからです。

アニメ2025

今年はまるで言葉を覚えたての子供が本を読み漁るかのごとくアニメをみていました。何をみていても楽しかったです。

 

 

AOTY『ブルーイ』

2018年に制作されオーストラリアで放送、2020年に配信開始、日本でもテレ東では2024年にテレビ放送が開始されている全世界で大絶賛の大人気アニメ*1『ブルーイ』のことをなぜ今になって語るのかというと、おれは今年の頭にできた単独枠で初めて見つけたからです。自分のアンテナの低さにはウンザリするばかりや。

ただまあ、日本でテレビ放送されてるのが今なんだから今のアニメとして語ることもできるでしょう。そんな感じでやっています。お願いします。なにとぞ。

 

さて。

『ブルーイ』はいま最も完成されているテレビアニメかもしれません。劇場編集版も見たのですがそっちもかなりよかったので映画部門でもノミネートしており……いや、脚本、背景、アニメーション、音楽とあらゆるセクションでの素晴らしい仕事があり、かつ、品質が極めて安定しているので他校生的AOTY総なめです。おめでとうございます。ここには全てがあります。

 

まず、スクリプトでもう完成されています。子供に向けた分かりやすくはっきりとしたテーマはしかし多彩であり、隅々まで行き届いた配慮があり、固くなく豊かに遊びがある。基本的に育児の様子が描かれるだけなのですが、幼いブルーイとビンゴがこの世界を理解し、そして自己を獲得していく過程がムチャクチャ丁寧に、正確に描かれるんですよ。しかも7分で。

本当にびっくりしますよ。プリキュアとか観てて思うんですが、育児を扱ったアニメってスゲーむずいんですよね。育児なんてもうすんごい重労働のリアルを見せられても辛いし、じゃあ幸せな部分とか可愛い部分だけ描けばいいかというとそれではペットにしか映らない。しかしブルーイは不快にならず、かといって削ぎ落としすぎず、育児のデフォルメが完璧です(まあ、俺には子供がいたことないので分かんないんですが……)。

遊びについても秀逸です。ブルーイでは、基本的にごっこ遊びという形でお話が展開していきます。エピソードで取り上げられるブルーイたちの視点や営みはジョー・ブラム監督の経験に基づいていて、やはり実話ベースだからこそ出る子供たちの自由な発想のおかしみは単純に楽しく、監督の観察眼の感度の高さに驚かされます。

また、この「ごっこ遊び」は、子どもたちが世界を獲得していく過程において極めて重要な役割を果たします。遊びにおける役割やルールの設定は、世界の小規模なモデルを構築することに他なりません。また、模倣することに限らず、現実世界とは異なるルールで遊びの中を生きることもできる。そうやって現実世界と相対化することで、現実における認識の基礎が作られていきます。行われているのは遊びによる「世界のデフォルメ」とでもいうべきものなので、エピソードの多彩さもそこから持ち出してくることができているのが強いですね。

 

そしてキャラクターたちはそれぞれ個性的な背景を持っていて、7分の間でかれらの生き生きとした交流が描かれ、その中で各々が生活の、犬生の、そして存在の気づきを得ていきます。子供だけでなく育児に取り組む大人たちの描写も見事なところが人気を裏付けている大きな要素でしょう。バンディット(パパ)やチリ(ママ)はとても根気強くていい親たちですが、わりと頻繁に間違うし、育児に疲れていたりもします。

『ひつじいぬ』より。育児疲れによるヒリヒリした雰囲気が湛えられたシーン。
エプロンの汚れが効いてます。

7分間たっぷりとかれらの交流にフォーカスされる中で、かれらのパーソナリティは過度に説明されることがありません。言いづらいこと、言ったら本人が傷つくだろうことを、言葉を選びながら伝える。会話で語られずとも、かれらの為犬(いぬとなり)は察することができるし、そもそも察する機会を与えるということ自体に非常に高い価値があります。知育アニメですからね。

 

肝心のアニメーションはみやすく、楽しく、愛おしいです。2Dカットアウト(切り絵のような各パーツを動かすことでアニメーションをつける方法)で制作されているのですが、固さはほとんど感じられません。各キャラごとの芝居付け等の細かい部分にフォーカスすることで、切り絵特有の、リグが固定されることのぎこちなさを回避している……というそんな工夫は当たり前(ここの芝居がとにかく豊かで見どころです!)として、なんか身体捻る(切り絵で作られた身体を捻ることは不可能なため、普通に新しく作画する)し、カメラワークもつける(切り絵で作られた身体を別方向から撮ることは不可能なため、新しく作画する)し、シンプルにリッチですね。あと普通にレイアウトも強い。

加えて、色やコンポジットで乗せる処理での飾り方も最もいいバランスに整えられていて素晴らしいです。ブルーイはここぞというときの世界の美しさをバーーーンとプロップのアップによく託すんですが、そこでディティールを固めるときに素晴らしい働きをしてくれます。

詩性云々の話でもホニャホニャと喋りましたが、強い映像はとにかく具象性、ディティールが大事だと思っています。焦点が絞られると、映っている要素の中から「この映像では何が大事なのだろう?」と探す必要がなくなり、「何を言いたいのか」「これを見ている主体は何を感じているか」の方に自然と集中するので、「これを見ている私」の話になるんですね。

 

そして、これらの品質がまるっと安定している、というのがテレビシリーズにとって非常に大事ですね。クオリティコントロールという言葉がありますが、これは本来カット単位でのリソースのイリとヌキを説明するような簡単な言葉ではなく、設計レベルから使われるべき言葉のはずです。ブルーイの優れた設計は優れたアイディアが最も良い形で出るようなコントロールを可能にしていて、驚くことに、全ての話数で、クオリティの低い回が存在しません(予算の規模がデカいというのもあるでしょうが……)。

 

子供向けと侮る層はさておき、『ちみも』とかが受け入れられていたところでも名前を見ないのはイマイチ納得がいきません。おれはアニメオタクにアニメとして『ブルーイ』をみてほしいよ……。

 

2025単話10選

そんなわけで、2025年のベストエピソードを上から10こ選ぼうと思うと、こうなってしまうのでした。

 

Copycat まねっこ

ブルーイって本気のアニメなんだ…と分からされた話数です。ブルーイが鳥が死んでしまった朝の出来事を再現して、死のままならなさを受け入れる……というエピソードなのですが、そのきっかけとなるのが、妹ビンゴが筋書きを無視して暴れだすという迸る生命なのです。

生死のともに分かち難いつながりが見事にブルーイの前に示される。そんな特別な朝が、最後、父バンディットの真似をいつのまにかやめていたことに気づく描写で印象付けられます。このアニメはこういう小さなひとり立ちを書くのがメ〜〜〜ッチャ上手いですね。邦題の「ま"ねっこ"」のセンスも光ります。

 

Asparagus まほうのアスパラガス

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屈指の人気エピソードですね。基本的にヒーラー家はみんなノリが良すぎるんですが、このエピソードでは動物の真似の仕上がりといい反応速度といい、マジで魔法にかかってるんじゃないか……?と疑ってしまうのも含めて楽しいエピソードです。冒頭でビンゴがイノシシじゃなくてこぶたがいい!と拒否していることで虚実のバランスの妙があるのもいい仕事をしています。

一応、どうぶつになったパパママビンゴの無軌道さでマナーの大切さを示しているんですけど、邦題で「まほうの」をつけたくなることに共感してしまうくらいの楽しさがとにかく魅力的です。オチのつけかたも技ありですよ。

家族をいぬに戻す儀式の様子

 

Dance Mode ダンスモード

言いたいことが言えずにもごもごしていると周りが勝手に気持ちを代弁してしまうつらさ。ましてや言語化がまだうまくできない幼児にとっては、それは日常よくあることなのでしょう。

ビンゴが遊びに集中しているうちに、パパにポテトを食べられてしまうところから始まるこのエピソードでは、音楽の流れているところでダンスモードをオンにされてしまうと、パパやママはその場で全力で踊らなければならないルールが敷かれます。

ビンゴが言いたいことがうまく言えずにいると、周りが「こうでしょ?」と勝手に気持ちを言葉にしてしまう。他人に操作されてしまうことについての話をふたつ同時にやる……というのは基本的な技術なのですが、最後の最後にダンスの解放感が待っているのがアニメとして見事ですよ。おもちゃのイエスノーボタンのどうでもよさや、それがただどうでもいいアイテムとして終わるのではなく「同時押し」みたいな使い方をしてくれるのも素晴らしい。

 

Favourite Thing おきにいりはなに?

この話数ではヒーラー家の夕食時、今日1日で起きた中でいちばんお気に入りの出来事を共有する「おきにいりはなに?ごっこ」の一幕がワンシチュエーション(ぼくの大好物なんですよ…)で描かれます。ささいな言い間違いのおかしさをお気に入りとして取り上げられたビンゴが機嫌を損ねてしまうのですが、ブルーイたちが笑わせて機嫌を直したり、機嫌がなおったことを指摘されてまた機嫌が悪くなったり、ころころとご機嫌と不機嫌を行ったり来たりする。団欒の最中、今まさに起きているこの感情の起伏、その豊かさはとうとう「”いまの”おきにいりはなに?ごっこ」に行き着く。「いまのおきにいりはなに?ごっこ」はそんなに盛り上がらず沈黙するシーンがあるのも素晴らしいですね。ワンシチュエーションならではの感動です。

 

Daddy Dropoff パパがおくっていくひ

ビンゴの友達、リラの「これは私の物語」という言葉から始まり、普段と違うぞ?と思わせる冒頭、しかしそこからは普段通りヒーラー家にカメラが向きます。この後もバンディットがブルーイとビンゴを学校に送っていく様子を描いていくので、内容としては直接リラが関わることはラストのラストまでありません。しかしそれでも、「リラの物語である」という宣言に偽りはありません。

バンディットからビンゴのちいさな思いやりに込められた、この話のメッセージがまるごとリラに伝わるのが泣けてきます。その伝え方として「ねじをまきまき(おまけにもういっかいまきまき!)」という本当に些細な「動き」を選んでいるのがまたこのアニメの巧みなところです。リラにネジを巻いてもらうことでビンゴは動くことができる、この容易い関わりかたの、なんと奇跡的なこと……!

 

Rug Island じゅうたんじま

「何かを何かに見立てること」は想像力の遊び場であり、ときにその強さの指標となったりもします。このエピソードをみれば、かつて子供だった私たちの世界をその力が支配していた頃、想像しさえすれば全てが手に入ったあの頃を思い出すことができるかもしれません。

大人が入ることを許されないじゅうたんじまでは、ペンを見立てることでバナナや槍、魚、そして火を作り出すことが可能……というか、そのようなスキルが求められます。想像力がなければこの子供の国では生きていけないのです。シビアですね。

大人の世界でもみくちゃにされこのじゅうたんじまに漂着したバンディット。その豊かな想像の技で滞在を許され、この想像の国の成立を脅かすものを追い返したりもする、立派な名誉子供です。

しかしそんなバンディットを呼ぶ声があります。このじゅうたんじまに一時身を寄せているだけで、大人である彼には帰らなければならない船があります。最後、島を旅立つバンディットに渡される、葉っぱに包まれた一本のペン。チリの「何をもらったの?」という問いに、バンディットは「全てだよ」と答えるのでした。

「全て」

ここで「全て」を見出すのはやはり親の視点だからこそで、これまで映されていた遊びのそれとはかなり質が違います。見立てる行為がペンに集中することで、このラストが情緒たっぷりになっている……子供と大人の視点それぞれを精密に描き出してみせるこのアニメの巧みさに満ちた瞬間です。

 

Bingo ビンゴとあそぼう!

OPがビンゴ版に差し代わるちょっとした工夫が嬉しい

ビンゴがはじめて意識的に「ひとりあそび」に挑むエピソード。チリが「ビンゴと遊んだらどう?」とビンゴにアドバイスをしていて、自意識の芽生えを感じさせるいい表現です。

ところがビンゴは、ひとりでの遊び方が思い付かず、何をやってもうまくいきません。広い世界にひとりほっぽり出されて、なんとなく仲間外れにされているような感じがしてしまいます。何を食べようか悩んでいたら冷蔵庫にも開きっぱなしだと注意される始末です(冷蔵庫とのバトルがまたかわいくて素晴らしい……)。

「わたしはれいぞうこにきらわれてる…」

ヒトがひとりで遊べるようになるときというのはとても特別な瞬間なのかもしれません。それはわたしとわたしでないものとの間にある壁と、そして壁越しに見える世界との付き合い方を考える機会です。ビンゴは自分だけの「おもしろい問題」を介して、世界と関わっていきます。

冷蔵庫の汚れの愛おしさよ。

持ち前の素直さで接するビンゴに、世界は自らを差し出します。冷蔵庫とも仲良くなれているのです。世界はこんなにも美しい。

 

Charades ジェスチャーゲーム

とっても孫に甘いおばあちゃんちに預けられたブルーイたち。「おばあちゃん、どうしてこのうちではアイスをたくさん食べていいの?」という質問(とてもいい質問)はさておかれて、ビンゴの提案により唐突にジェスチャーゲームが始まります。

ところが、まだ2〜3歳くらいの子もいて、「お題の絵が描かれているカードを他の人に見られないように引き、それをジェスチャーで表現する。他の人はジェスチャーを見てお題を当てる。」というルールを理解できず、ゲームを台無しにしてしまいます。

カエルのカードを引いたマフィンは、しかし「バレリーナのジェスチャーをやりたい」とルールガン無視のわがままを言います。おばあちゃんのうちでは「全員の願いを全部叶えてあげる」ことがルールなので、そのわがままを叶えてあげなければなりません。

もちろん、これではジェスチャーゲームが成立しません。マフィンのわがままを叶えてあげて、ゲームも成立させる……どちらもやるのがおばあちゃんちルールです。そこでビンゴは「わからないふりをしてあげる」ことを提案するのですが、しかしそれだけではきっと最善の結果とはなり得ませんでした。ラスト、「全員」がゲームに参加して初めて成立する瞬間の奇跡のひと押しが感動的な傑作エピソードです。

 

Sticky Gecko ぺったんヤモリ

ドアは!ここにあるというのに!

ただここを通って、出るだけなのに!

なんでできないの……!

これは多くの親が共感するセリフなのではないでしょうか。育児の上手くいかなさってこういうのの積み重ねですよね……親であったことはないはずのおれですらわかりすぎてしまったほどです。

さて、このエピソードもワンシチュエーションですね。お出かけ前の準備が遅々として進まない日の玄関の様子が描かれます。

冒頭

3分後

あと1分で家を出ないといけないというのにブルーイとビンゴはまったくいうことを聞いてくれません。どころか、ふたりが次から次にタスクを増やしていくので、チリがとうとうパンクしてしまう始末です。母親って大変だなぁ……いやほんとに……

「急いで待て」という作中の言葉の通り、育児では、いや育児に限らず人との関わりでは忍耐が大事です。なぜ家を出たがらないのかをブルーイが語ってくれるまでの時間を、ワンシチュエーションがバッチリ演出してくれる……ストーリーと形式が見事に噛み合ったエピソードです。余裕を取り戻したチリが、積もり積もったタスクを全てこなしてみせる爽快感で終わるのがナイスですよ。

 

Flat Pack こんぽうざい

『ネンネのじかん』など、たまにブルーイでは神話規模の話がくるんですが、これもそれです。
親がブランコを組み立てる時に出るおおきな梱包材を使って、子供達が海や火山など、さまざまなものに見立てながら遊ぶ。それが生物の、霊長の歴史を辿っているんですね。段ボールの洞窟、その壁画に描かれた階段の上の両親はまるで神のよう。親と子、神とヒトと、もうすでに構図がカッコよくキマりすぎている……

こんぽうざいの神殿

さらにこのごっこ遊びの中でも、姉ブルーイが親、妹ビンゴが子を演じています。

宇宙船を作り旅立っていくビンゴを見送ったブルーイ。ひとり取り残された彼女は、そんなふたりを「天国」で見守っていた父母のもとへ合流し、ビンゴを見守るのです。エピックですね。

 

そんなブルーイはディズニープラスで絶賛配信中!

日曜朝7時からテレ東で放送されてもいるよ!

 

 

 

 

 

ついでにしゃべりたいやつ

そうはいってもまあまあ見まくっていたので喋りたいアニメの1本や2本くらいあります。ので、飽きるまで喋ります。

 

オフィスラブコメ

『この会社に好きな人がいます』、良かったかというと……いや、ちゃんと良かったと思います。オフィスラブコメってジャンルの良さを知るためのとっかかりになりました。ほどほどのディティールさえあればぜんぜん部活モノでいいんですよね。俺は労働をクソ舐めているため、真面目に働けよ!ともならなかったです。業種違うし。

むしろ、オフィスでこそガンガンメイクラブすべきなのかもしれませんね? 労働に生きがいを見出すのはやはり家族のためだったりするわけですし、あとはまあ、恋愛にも前向きな人が多いという偏見があります。ふたりとも経済的に自立しているのだから、なるようになるだろうという舐めもあります。俺は恋愛も舐めています。

そんな風に気楽な立場にあれば、ふたつのどうでも良さの見事な馴れ合いを見ることができました。進研ゼミの漫画みたいなやつですよね。労働して恋愛して人生を充実させる、そんな大変めんどいことをラブコメというジャンルでほんわかまとめている。

社内恋愛なんてそれに輪をかけてめんどいわけです。で、ちゃんと社内恋愛のめんどさ(作中ではスリルとして描かれていたが……)の美味しいところをよく調理していて、上質でした。序盤、メインカップルたちと対照的にあった染井後輩の距離の取り方を添えていたのもお気に入りです(例の如くラブに巻き込まれてしまったのが少し悲しかったです)。

失われつつも、アニメ市場が広がった今さらに求められている価値のような気もしていますし、今後ますます強くなっていくジャンルかもしれません。恐ろしいですね。

 

『不器用な先輩』には『この好き』で掴んだオフィスラブコメの核心、そこの良さはほとんどないのですが、でもオフィスラブコメというジャンルでしか語れない良さというものもありました。鉄輪先輩の社会人というにはちょっと幼い感じを「かわいいな…」とチラッとでも思ってしまった……その責任を取らねばならないときもあります。社会人だからね。

かわいい

オフィスラブコメからはなかなか切り離せない”しごでき”属性、ツッコミどころしかよばない厄介な存在ですよね。鉄輪先輩もしごできで、それでいて不器用というのがおおまかな造形でした。厄介ですね。

その不器用さはやはり致命的にしごでき属性と相性が悪かったのですが、鉄輪先輩の魅力はそこに寄りかかっていなかったのが良いと思いました。彼女自身仕事ができると思ってなさそうというか、自分の精一杯で社会生活を足掻いている、そんな一生懸命さが魅力なのであり、タイトル通り不器用な先輩ということなのでしょう。

そんなもがく鉄輪先輩たちの生き様を表しているのではないかと深読みもできる、わちゃわちゃっとした作画の面白さもありつつ、しかしなんといっても度々挿まってくるムーディーな場面のすはらしさですよ。

5話『ぜんぶ台風のせいっちゃ』はそんな二人の距離感を堪能できる話数でした。台風という巨大エネルギーに振り回されるシチュエーションがなんか全部上手くまとめてましたね。他にも電車のとことか、帰ってから先輩が傘置くところとか、べったりとくっつきすぎない湿度ある描写に二人の関係の説明を託す意欲的な回です。

とくにここはかなりすごいと思います。ニュース番組が台風の様子を示すためによく傘をさすサラリーマンとかの映像を使うんですが、あれの面白さ、滑稽さを使う着眼点にまず巧みさがあるというか。人の営みのおかしみを使ってみせるのはコメディの本領発揮という感じがしますね。

 

コメディ

2025年のコメディのアニメといえば忘れてはいけない『妃教育から逃げたい私』です。設定の苦々しさも真正面から喜劇として扱おうという頼もしさがありました。画面側のこちらに話しかけるようなギャグがあるのも演劇的で、弱点をつかれましたね。

こういう、横から映した画とかが頻繁に入ってくるんですよね。このかなり平坦なトーンだからこそ言動が主役になる感じが演劇っぽいし、そして動きの面白さで語るアニメでもあります。笑わそうと働きかけるのではなく、笑ってしまうような状況を描く。これは「笑っていいのかこれ…」というシチュエーションにも沿っているように思います。

テーブルを避けて窓際に駆け寄る

3話はこういった調度品の存在感がリッチな嬉しい話数でした。避ける動きのために急ぎつつも急ぎ切らない時間が生まれます。こういう余裕があるのがいいですよね。ここには品の良さ、動きのおかしみ、登場人物たちの情緒などなどなどいろいろ入ってくれます。

そう、この余裕が逆にレティシアの燻りをよく表現します。外側にあるなんだかよくわかっていない自由を目指そうとして内側でうろうろなんかやっている、そういう闘い方をしています。喜劇の余裕は、ただ笑わせるためだけのものではないんですね。クラークたちはしっかり反省してくださいね。

 

 

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『恋するワンピース』、しっかりショート用の画角で作られてて珍しくて面白い……し、それ以上に作画が、テンションが、おもろいですよね。作画が話題になるアニメとして名を馳せているワンピースを元ネタにギャグをやる原作と、これにテンションの高い作画をぶつけるわけですから、正解でした。ショート形式じゃないやつもみたいなと思いました。

 

 

youtu.be

いいOPですよね。板垣伸率いるミルパンセのアニメがわりと好きなんですが、まあちょっと暴れすぎなとこがあるよね……と、最近その暴れすぎな部分がいい感じに丸くなってきたのを感じてます。

振り付け自体の可愛さもさることながら、アニメになったときのぱたぱた感がいいアクセントです。

とくに長谷川千夏さんの仕事は、板垣さんのいい部分の翻訳とそこに足す繊細さが素晴らしいです。たのし〜!というテンション高めのアニメーションに情緒が足されて、地に着いた元気さ、生活の中の元気さという、今までわちゃわちゃしていただけのところに深みが出てきており、ほぼ無敵な感が出ていました。

 

 

女の子が可愛いかったこと

『カードファイト‼︎ヴァンガード Divinez』、何をやりたいのかよくわからないですね。異常な長さでやってくぞと発表があった2年前は「何やるんだ…」という心配もありつつwill+Dressがそこそこ楽しかったなりの期待をしていたのですが、今や無理やり延命されているコンテンツという感触すらあります。

いや、このシーズンはなんといっても妹です。お兄ちゃんを助けるために妹が未来からやって来るんですが、今の妹もいるわけで、つまり「妹(年上)ー兄ー妹(年下)」という状況になるんですね。ここだけは素晴らしかった。 

ただまあこれを擦りまくってくれるわけでもなく、ずっとふにゃっとしたカードファイトが続くので残念でした。ポテンシャルは、感じているのですが……

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うおおおおおおおおお!!!お兄ちゃんのデートを尾行する妹!!!!!!

3000000000000000000000億点!!!!!!!!!!!

 

 

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『Loop girls』に続く改リさんの現実背景にアニメの女の子コンテンツ。計算中が終わってから本格化しだした蓮やらVやらなんやらのつまみ食いをしている最中で見つけたもの。単発動画だし計算中枠ではないですが、アニメの女の子が動いている!という素朴な感動が強くありますよ。背景が動画なのがすごく良いです。

たぶん有史以来初のしっとりケーキ(チョコ)作画

編集の有り難さを感じたりもしたのでやはりちょっとだけ計算中枠かもしれません。

 

 

黒執事 -緑の魔女編-

2025年も最強は釘宮理恵でした。

 

 

ゲーセン少女と異文化交流

まあ、天城サリーさん熱烈応援の気持ちもあるんですけれども。それとは別に菊池聡延監督が仕事において何を大事にしているのかを掴めたのが嬉しくて、2025年の大切な一本になりました。

「風景を切り取る」というにはやわらかな感じ、絵としてのフレームを意識させない感じがありますよね。空気もそっくり画面の中に移すようなワザは『擬似ハーレム』でも光っていましたが、本作でもゲームセンターという”場所”の話ととてもよくハマっていたと思います。

時代を越えるゲーセン性

この見事な劇的でなさ、親しみ深さですよ。異文化交流と絡めて故郷の話をしていたこととも相性がよかったと思います。

 

 

ソシャゲ

もう当たり前のように毎週高品質アニメーションPVがバンバン出てくる時代になってしまった……

【崩壊:スターレイル】2ndアニバーサリー スペシャルアニメ「旅の途中で」

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FGOのやつでもう人類が到達できるとこまで到達してしまった感のあるシュウヒロマツを超えるのはやはりシュウヒロマツでした。お得意の物質的なゴージャスさと相性の良くなさそうなアニメアニメしたルックとをいったりきたりたまには一緒に描いてみたりと何度見てもすごいということしか分からない。意味不明です。すごいです。

 

『リバース:1999』Ver.2.5EP「お願いオフィサー」

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ソシャゲPV関連どころかインターネットのやつではいちばん好きだったかもしれません。英題の『ROCK SOLID』のほうが好きだったりするんですが、それがお願いオフィサーになる…というダサさ含めて良いと思います。デフォルメのシンプルさもめちゃくちゃ好みで、まるっこいデザインがとにかく可愛いですよね。香港映画ネタって楽しいとかっこいいが両立していて拾えなくても面白いからすげえやと思います。

 

Elden Ring Nightreign - Animated Series Opening

ソシャゲじゃないけど。

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個人制作のファンムービーでもとんでもないものが出てくる時代です。

エルデンリグナイトレインのアニメ性を語りた〜いという、そんな需要に応えてくれたのかなんなのか、ファンによって架空のアニメシリーズのOPが作られてしまいました。2025年はこんな感じで欲しいな〜と妄想したアニメがぽこぽこ来てしまうので怖かった。

とくに”シリーズ”作品のOPであるというところが気に入りました。セッションごとに異なるワールドでの、チーム全体のビルド構築なんて、シリーズ作品の単話で完結する構造そのものですよ。萌えキャラばっかだしほぼテレビアニメです。フロムソフトウェアさん、なんとかなりませんかね。アニメのセキロバカ売れしたらなんとかなるか? してくれ〜

 

アークナイツ【焔燼曙明/RISE FROM EMBER】

毎回OPで泣いちゃいそうになるんですよね。

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ゲームのほうもやってるんですけど、おれソシャゲのテキスト読むのめちゃくちゃ苦手なんですよね。テキスト欄ちっちゃいし送り速度もちょうどいいところ見つけらんないし、てかテキストに集中したら絵みれないし。なんでストーリー派ソシャゲが流行っているのかが分からないぜ。

愚痴から始まって申し訳ありません。それほどアニメ化が待ち遠しかったんです。もちろん内容は細かいところでは削られていて、かんぺきにニュアンスを保持していたとは言えないらしいのですが、それでも魂とでもいうべき部分は強固に作り上げてくれました。1期の頃からの割と長いプロジェクトでしたが、渡邊監督の偉業といっても差し支えないでしょう。

とにかくキャラが多く、取捨選択が難しいため、ソシャゲのアニメ化はイマイチ上手く行かない印象があります。脂の乗ってきた中盤以降とかならまだしも、序盤などは舞台説明などに忙しく、ストーリー派をうたうソシャゲですらわたわたしてしまう。

アークナイツも同じ問題を抱えていたし、そしてわたわたしてもいたと思います。しかし、アークナイツには資本力と根気があり、そして描いているものが時代の求めるものでもありました。商業作品という枠組みの中でシリアスに社会問題を扱ってみせたバランス感覚は、2025年を代表する作品に相応しい出来だったと思います。

人が集まって作られる大きな意志とその衝突を描いているので、キャラ数の多さは大事でしたし、名前のあるキャラだけでなく名前のない人々を描く必要があります。アークナイツのアニメはネームドキャラたちに埋めることなく、この名前のない一人一人にちゃんと存在感があったのが素晴らしかったですよ。顔をかき分けるとか、名前を与えるとかそういうことじゃなく、意思を持った人々を映すことがすごくうまい。

ほとんどどの場面にも映る群衆

固く配列した意思

そしてアーミヤやチェンが彼らと対話を試みようとしている。その取り組みの忍耐強さが、キャラクターの意思、そして制作に関わる人たちの意思として、アニメという形になっていてグッときます。

 

 

羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来

他人に薦める2025年のみるべき1本を選べと言われたらこれですね。面白みのないチョイスになりますが、まあ圧倒的な仕上がりなので仕方ないです。

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お話もアニメーションもかんぺきなのに姉弟子・鹿野とかいう萌無双も持ち出してきた本作に隙はありません。

なんの関係もないけど筺底のエルピスがアニメ化するとしたら柩使い戦は小黒の領界みたいな感じになってチョー気持ちいはずなんですよね。そろそろ完結することだしトライガンを触媒にアニメ化してほしい……(でも作画でやってほしい……)

 

 

新・异常生物见闻录:序(2/28追記)

この新劇ぶりは本当に何?

『異常生物見聞録』というアニメが、結構大好きでして、そのなかのヴィヴィアンという吸血鬼(血族ですわ!)キャラは日常私の心にいるくらいの存在なのですが……なんとその新作が来ました。俺が根強く訴え続けていた異常生物見聞録2期を求める声が大陸まで届いたのでしょう。こっちでの放送が待てなかったので、ビリビリのユーチューブアカウントにて中国語版を視聴しました。

このエヴァぶりは本当に何?

異なる種族がひとつのアパートで同居するドタバタコメディ、『異常生物見聞録』が日本で放送された2020年は映画羅小黒戦記の1作目の吹き替え版が公開された年でもありました。ひとではないものたちが共生するというお話で、テーマもどこか似通っているそんな二つの作品が、ジェームズ・ガン『スーパーマン』が放映された2025年に再び出会ったことは偶然ではなかったのかもしれません。

ナディアみたいなやつがいるのもマジで本当に何?

そんなテーマは変わらずとも、しかし、1作目のような愛嬌は薄れていたのは残念でした。巻き戻したりしながら字幕を追ってみていたりしたせいかもですが、いやそれでも『いじょうせいぶつけんぶんろく』のコーナーが消えていたことのショックは大きい。

蟹アニメキャプでいちばん好き

あそこで初めて、いや久々に? 2頭身のキャラの良さ(記憶にある限りヒカリアンが唯一の例だ)(ヒカリアンは1頭身だ)を受け取った感動のままヴィヴィアンのねんどろいどを買うくらいには気に入っていたコーナーだ。今だっておれがアニメを見ているテレビの前に座ってこちらを見ている。

 

 

NHK

山尚OP・EDで沸かせた『アン・シャーリー』。同時期にMXで高畑版の再放送もやっていたんですが、1クール分くらいのビハインドを軽々と追い越す爆速ぶり。これが令和のスピードか……と感心したり、いやこの早さはあまりにも適切ではないとなったり、そもそもの高畑版の見事な仕上がりがあったりでフラットに楽しむのが難しかったです。

高畑版がいかに名作だったか、という話を抜きにすれば、100分で名著のような役割は十分こなしていたと思います。『アンの愛情』までのギルバートとの関係の決着があることはそれなりに大きな意味を持ちますし、男女の友情は成立する?(いやするだろ)なとこは、個人的に貴重でした。

しかし、それだけとも言えました。マリラやマシュウの魅力はほとんど半減し、高畑版のあの見事なナレーションの語りによる支えは影も形も無く、想像力を刺激するグリーンゲイブルズの魅力的な自然は……そんなないものばかりを見つけてしまう、寂しい視聴をした半年間でした。

 

 

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かなり無法な面白さが出てきた『不滅のあなたへ Season3』。私たちのよく知る現代とはちょっと違う現代、そこでは不死者の伝説が広く伝わっていて、そして地上のあちこちにその不死者の根が張っています。

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そんなわけで、不死のフシを含めていろんなキャラの倫理観がちょっとずつずれている……のですが、このおかしさはもちろん常識の違いから生じているものでありながら、私たちの生きる現代の問題に通じているものでもあるのが見事です。死という概念そのものの尊厳、死の意味といったものが、数百年前の死者を復活させてしまえもするフシの存在により薄れている。そこでおやと思わせながら、やはりリニアな時間の中を生きている人々には「今のまま生きて行けるのか」という不安がある、その先にまだ根強く死の存在感を見ることができます。生あれば死がある当たり前の構造が本作の世界観によりユニークに示されていて、そしてそれは今生きてる私たちの世界にも馴染みのある話なのかもしれない。

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全然関係ないけど直後にキングダムのOPが流れるのが事故レベルの面白さだった。

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関係ないついでに話すけどキングダム6期EDが年ベスレベルでよかった。

 

 

作りが気に入ったもの

度々話題になる労働環境が改善が試みられていたり、完全内製を目指した制作フローの整備だったり、そこらのこともだんだん注目されるようになりました。個人的にも作り方にはとても興味があるので、アクセスしやすいこの時代はとっても嬉しいです。

 

個人的に、作られ方を想像することで「内容のどこに力を入れているのか」を探そうとするなど、アニメのみかたが結構大きく変わった2025年でした。

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手びねり組(+鈴木拓郎さん)による『青のオーケストラ』ではオーケストラという全体と個についての題材を扱いながら、マンモス校を舞台とする青春を描いているのですが、背景素材などの「大きいもの」についての丁寧な仕事で質を担保しているのがタクティクスという意味でも好感が持てます。

荒川眞嗣の素晴らしい絵を、キャラだけじゃなく背景含めたコンセプトごとまるっと仕上げてくれた『トリツカレ男』は、シンプルに絵の力を信じ抜いた圧倒的フィジカルで「好き」の喜びを歌ってくれるステキなアニメーションでした。

作り方を知っているとめんどくさい部分というのがわかるようになり、そしてめんどくさいところをしっかり取り組んでいるということが分かれば力が入れている場所になんとなく見当がついてきます。それがフィジカルだったりタクティクスだったり、商業の予算の範囲で選ばれるものが変わってくるのが面白いですよね。

 

さて。

ややウェットに盛りすぎる傾向にある竹下良平監督ですが、『光が死んだ夏』はその湿り気がダントツでハマっていたと思います。ホラーでBLで……となれば味付けは濃ければ濃いほどいいのでした。

演出育成のような目的もあったようで、その中でも編集に注力していたことに本気度が伺えました。アニメでは完成から逆算した素材集めが要求されがちなので、素材を切って貼ってする工程に重きを置くのは編集という工程そのものが担う重要さ以上の意味を持っていると思います。こういう取り組みをしても演出過多!とならなかったのが100%報われているように感じて嬉しかったですね。

 

 

太陽よりも眩しい星

結構長く小林彩監督のファンをやらせてもろてるんで、完全に後方プロデューサー面でみてました。ちゃんと言祝ぐことができる初監督作、めでたいし嬉しいですね。苦しそうなところも見受けられましたが、使えるリソースのなかでやりたいことをしっかり仕上げていただいた印象です。

混線するLINEのやりとり…という表現

穴を塞いでいたボールを神城が指一本であけてしまう。

こういうちょっとしたところの技の多彩さが魅力です。

あと、小林監督といえば「見栄」の話ですね。

スピード感で言えば18年度版の監督がこだわってたのが、見栄カットの構成です。原作でもこのキャラのこれってポーズ(必殺技だったり、スーパーセーブの瞬間だったり)は他のカットより強調したりすることです。(中略)ここを見てくれ!っていう見栄ですね。(見栄をはる、歌舞伎用語ですね)
繰り返すことで(見る人に)突っかかりと印象付けを残すスポーツもので繰り返される古来よりの手法ですが、翼は随所解説が入るので改めて演出手法を考えると相性が良い気がしてます。

見栄のところではカッコイイポーズでビタっと決めるわけで、そんなに動かせないけどかっこよく魅せたい…みたいなときにとても活躍してくれます。まさしくテレビアニメですね。

そしてそんなテレビアニメのやり方にこだわっているからこその先の技の多彩さでもあると思います。止める、繰り返す、重ねる、などなどなど、手元にある素材を映す時間をさまざまに加工することで面白さを引き出して見せる……テレビアニメファンとしては熱烈に応援したい一人です。

 

 

 

New PANTY & STOCKING with GARTERBELT

カッコよすぎる……神羅万象チョコ感……

の、4話Cパートです。脚本からやってるってのが五十嵐海のファンとしては嬉しいんですよね。ツイッターにあげている絵の台詞とかちょっとした詩とかがかなり好きで、脚本からやったら絶対おもろいはず……!と待ち望んでいたものがクレジットされたことの喜びたるや。

Twitterにあげてる落書きすぎる

まあ中から出てきたのは濃ゆ〜〜いジャック・カービーリスペクトなんですけど。わかんなくてもおもろい。あたりまえですが、元ネタのおもろい部分、お話のハジけ具合や絵の面白さとかを引いてきてるわけですから、おもろくなるんですね。

1期雨宮のTF回みたくおふざけメインかと思いきや、暴れまくったピークのことではキャラの情緒に振り切ってくれる作りは、熱くて乾いたアニメーター五十嵐海の本領ですよ。

ここでちょっとウルっときてしまうのがマジでおもろい

エッジランナーズ2でも脚本回を期待できそうなのが楽しみすぎます。早くみせてくれ……

 

 

想星のアクエリオン Myth of Emotions

ロケハンでレイアウトを決め切るというやり方を、この土日の子供向けアニメっぽいビジュアルでやるという……前世パートのディティールが相対的に高めなCGがなくとも「二つの世界」を意識させる作りです。オモロイですね。

しかしそこで想定されていたオモロさが出ていなかったのが辛いところでした。ロケハンで決めきったために固いレイアウトはシンプルにねむたかったですし、そこらへんの細かい面白さを塗りつぶす前世パートとのギャップもあり……面白いかどうかはさておき、かなり変な脚本も魅力的だったので惜しいアニメでした。MXだともめリリと連続して観ることになったのが面白かったです。

 

そんな実写素材とアニメーションの融合として見事だった『ボサノヴァ〜撃たれたピアニスト〜』。ドキュメンタリーとアニメーションの不思議な相性、主観性の磨き方に出てくる独特の真実味みたいなのがあると思うのですが、これもその虚実の振れが魅力的でした。

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途中に出てくる犬とか鳥がかなりぼんやりした、落書きみたいなデザインなのがいいんですよね。過去を振り返るときの、「たしかあの時犬が鳴いてて…」みたいな、どうでもいいディティールのぼんやり具合を表現している感じ。あと音楽も好みだったので、TAAFの映画部門にも入れた一本でした。

 

 

インディー作品

『Flow』、ゲームのシーンムービーぽいな、と予告段階では思ってたんですが、実際映画館でみるとちゃんと映画になっていて驚きました。洪水の圧倒的な迫力……猫の視点になって、というわけではなく、猫と一緒に漂流するというコンセプトとその仕上げ方が見事でした。

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アカデミー賞の長編アニメ賞をとった本作の放映を皮切りに、インディー作品の勢いがまた増した年だったように感じています。色々便利なツールが出てきてハードルが低くなったこともあり、これから物語もやる個人制作作品が増えていく予感がありますね。

 

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その中でも『無名の人生』は監督の愛着が、人生が滲みまくりなアツい映画でした。こんだけ気合いの入ったインディー作品は流石に言及しとかないとアニメのオタクをやってる意味がない。

内容もある無口な男の一生を追うというもので、それは最後トンデモSFぽいとこまでいってしまうのだけど、そうやって世界のなかを漂流していくこと、イベントをとにかく乗り越え続けるしかない状況に振り回されることの人生ぽさがうまくハマってくれています。監督の人生、主人公の人生、そして私の人生が重なってくれると映画って感じしますよね。

ジャニーズ騒動に似た事件の顛末を描く2025以前ではその凄惨な状況を飲み込むのにやや手間取り、そしてトンデモSFへと加速していく以後ではブンブン振り回される……という構造をしているので、ちょうど2025年あたりで私のピントが合ったのが地味に感動ポイントでした。狙って構造を組んだのかどうかは分からないんですが、私の人生がこの映画に関係するためには欠かせない要素でした。間違いなく年内でトップレベルで熱のあるアニメです。

 

 

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葛飾出身さん、好きなんですよね……葛飾出身さんはイエロー・サブマリンが好きで、それがスタイルの基になってるんだから、そりゃおれも好きなんですよ。2025年は氏の仕事がむちゃくちゃ発表された嬉しい一年でしたが、スカートのこれが一番好きです。

影絵アニメーションのぺらぺらとした頼りなさが、流れや光によりとばされていく。そのどこにもたしかなものが見当たらない感じに乗って鳴るフォークの曲調が能く効きました。イエローサブマリンみたく陽気ではないけれど、自認サブマリナーはよくこういう気分になるから。

 

 

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超かっこいいインディーオブインディー、トップインディーです。

セルをのかすときの反射光!

透過光!すばらしく魔術的〜〜〜

最近はインディーと商業の境目がなくなってきているぶん、ダンテレはそのインディー魂という点で際立っていました。アニメへの愛情をアニメとして出力するとアニメになってしまいがちなところがある気がするんですが、制作ドキュメンタリーを作れるくらい「作り方」にこだわっているのがちゃんと本編の目立った出来に繋がっていたと思います。

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放送技術を扱った本編とのリンクが嬉しいですね。設定解説のおまけアニメもあるんですが、設定からもう面白い……本編以外も内容が充実しているので合わせて観て欲しいです。

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これ見たの2026年に入ってからなんですけど、話す機会も無くなりそうなんでここで……かなりハイレベルなミュージカルアニメでした。『笛吹男』をつかって差別というテーマをやるのかなりかっこいいですよね。そして主人公がネズミという……キメのエモーショナルさもあって美しく仕上げられた短編映画でした。

 

 

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シュウヒロマツ風のアニメが出てくるたびにシュウヒロマツフォロワーっておるんや〜と驚いてます。人間離れしてるから流行んないと思ってた。

これは個人制作なので輪をかけてすごいですね。異常です。

 

 

 

 

 

真・AOTY

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まあ、ちょっと、これはちょっとね……これ以外ないということで……バキバキに僕固有の体験が理由の選出になってしまうのだけど、これもアニメをみるということでしょう。

o-zo.hatenablog.com

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本編の出来も素晴らしいのですが、作られた経緯での加点がちょっと大きすぎるので冷静な評価はできていません。西條の”わがまま”が堀口さんを動かして作られた4分弱、これ以上に俺の心を動かしたものは2025年に存在しません。

西條和が滝川みうに声をあてる最後のレコーディングの様子がすごすぎるんですよね。アフレコブースでの西條と若林監督と藤田さんとのお茶会として行われ、その中で西條の自然な泣きと笑いがサンプリングされる……若林監督の、滝川/西條の重なりを大事に描こうという極まったディレクションです。監督のツイートにある、西條が履いていた赤いパンプスへの言及も映像的な詩性があります。最後の最後まで滝川の繊細な存在が保たれたことは驚異的でした。関わってくださった方々には感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

以上!2025年のアニメでした。僕が話すまでもないか……みたいな名作は省いてしまったので飽きたのに飽きたら追記します。

*1:これは全く誇張はなく、2024年世界で最も視聴された配信番組です。あの斎藤圭一郎や吉田恵里香も爆褒めしている。

滝川みうの幸福:西條和と堀口悠紀子の浸透するところ

グループ発足初期における足だけ公開、そして計算中での目線カメラ……滝川みうの最後のツイートにおいて、彼女の存在を表現するのがこの写真だったことは必然だったように思います。

そしてやはり、この足元から、堀口悠紀子の仕事を何よりも強く連想してしまいますね。彼女は原案から堀口さんだったわけですが、西條和の個性が堀口悠紀子の線により包まれている……そのような構造で滝川みうが見つかったことは、とても幸福なことでした。

それはおそらく、キャラクターコンテンツとしてマトモなものを提供できていないナナニジにとっても。というのは、二人の仕事がとてもよく響きあっていたからです。私は、彼女が卒業する頃にはもう、西條さんの言葉や仕草のひとつひとつに堀口さんの線を見るようになっていたのでした。

 

 

 

 

ふぁい。

 

 

 

場:秋元康の作為

アイドルの仕事が歌うことや踊ることとかではなく、「存在する」ことなのかもしれない……と理解したのはここ最近のことでした。歌や踊りが上手いからアイドルになれるのではなく、「歌や踊りが下手だとしてもアイドルとしてステージにたてるか?」ということを問われているのであり、極論、やることとしては「ファンの前にたつ」だけでよいのです。そして、このシンプルさが自己存在を剥き出しにしてしまいます。プロデュースの向きに加速を受け、ファンの欲望に晒されて、自意識は異常な緊張状態に陥り、「自分という存在に価値があるのかどうか」という大人にとっても酷な、あまりにも生々しいことを問わねばなりません。

 

そんなアイドルの楽曲の歌詞を書きまくっている秋元康の仕事は、ドラマとしての面白さを大事にしているといえばいいのでしょうか。曲の歌詞も時間の経過や心境の変化を書いたような、脚本っぽいものが多く見られます。

なるほど、歌というよりドラマのようなものと思えば、テレビ屋としての仕事とも繋がって見通しが良くなるように感じます。提供しているのは楽曲というよりも舞台であり、この場合ではアイドルも「演じる」ことに寄るわけです。演じる時にも、ファンにとっての理想、そのアイドルにとっての理想、そしてプロデューサーにとっての理想のそれぞれ三方向へ引っ張られ、ここにアイドルの自意識と、その緊張が見られるのではないでしょうか。

 

さて、細かくは変わってくるものの、秋元康の仕事では「大人や社会へ反抗する少女」という構図がわりと見られます。テレビアニメ『22/7』もそんな感じでした。大人の作る虚飾に塗れた社会の象徴としての壁、最終話で壁を破壊したナナニジチャン達を待つのは、大勢の観客に囲まれた舞台……反抗することすら大人たちに仕組まれていたステージです。

こういう捻れた「語らされる」構図は、「やりたくないことをやりにきた」西條と馴染んでいたように思います。アイドルをやりたいわけでも、声優をやりたいわけでもなかった西條が、そのことを表明しながらも舞台に立つ。この場においては、その彼女の偽らない姿勢がそのまま価値となります。

本人が度々語っていたように、『22/7』でなければ西條はアイドルを続けられていなかったかもしれません。彼女の個性はグループにおける中心的な価値であり、(もちろん人情も無視できないのですが)手厚く保護される環境があったからこそ*1、のびのびと青春を送ることができたのだろうと思います。

 

 

核:西條和の内密性

「なぜアイドルになったのか」と聞かれるとき、西條和は毎回、応募条件が「東京で活動できる」「〇〇歳から〇〇歳までの女性」のふたつだけだったことを話していました。

条件が「少女であること」だけだったから、というのはなかなか示唆的だと思いました。歌手やダンサーではなく、アイドルであることに求められている価値……それが存在そのものに他ならないことを思わせます。ただ「少女であること」だけで、生存が困難に思われるほどの現状を脱して、しかも職を得られる。当時の西條にとっては、生きていく自分の姿がいちばんイメージしやすかった選択肢だったのでしょう。彼女が卒業した今振り返ってみても、やはり西條にとってアイドルは天職だったのだと思います。

一方で、「やりたくないことをやりにきました」と言ってアイドルになった滝川と西條。ファン目線では最高のアイドルだよ〜😭と思いつつ、本人にとってアイドルはどこまでいっても「向いていないこと」でした。

アイドル用のペルソナを持てない西條は、アイドルとしての自分の価値に最後まで自信を持てていないようでした。しかし偽らない自分で立つというのは、最もシンプルなスタイルでもあると思います。自分と自分との間での摩擦は考えなくてよく、そこには常に内と外の問題しかありません。この内と外の単純な2元系であるからこそ、偽らざる西條の内向きの緊張、内密性がダイレクトに外に伝わりやすい。その向きに沿って集められた視線から西條中心の構造、この開かれた内密性の構造ができるのは、自然なことだったのかもしれません。

 

そして、なごブログもその内密性が表現される場のひとつでした。「自分に本当にあったこと」しか書けない西條の文には、盛り盛りの修飾がありません。自分をとりまく環境が揺るがされる出来事と直面したときの経験が、素直な言葉で書かれること、過度に感動を煽らないことは、その出来事を消化していくためには大切なことであり、その度になごブログは大きな役割を果たしてきました。

西條の卒コンがなごブログを引用しながら西條の活動を振り返る作りだったにも関わらず、それは22/7というグループの履歴でもありました。それは、西條がグループの中で経験したこと、見てきたことが、なごブログにしっかりと残っていたからだと思います。

初めてなごブログを読んだ時の、バラエティとかで見ていたトガトガな感じに反したふにゃふにゃした語彙と、頻繁にはさまってくる大胆な改行への驚きは今も記憶に残っています。

こんな感じで、一文もそんなに長くないため、かなりスクロールをして読まないといけないレイアウトになっているのです。このじんわりと言葉の滲んで広がるような余白の多さは、西條の好みそうなところです。

スクロールさせる、ということがそれなりに効果を持っていると思います。読むスピードは遅く、一度に目に入る文量は少なくなり、一文にかける時間は長くなり、この時間が余白の部分へ想像を向けるきっかけとなり得ます。

チャイムは嫌い

 

 

チャイムの音は、透明な柵を外す。

 

 

この50分は自分の席にいていいと許されている時間で、

唯一、見えない柵が守ってくれる時間なのに。

 

 

この音がなり終わる頃にはここに座っていることにも理由がいる。

 

 

自由という名の圧迫が始まる。

 

 

子供はみんな休み時間がすきでしょ。

なんて言う大人を睨みながら

 

 

大人なら誰だってピーマンが食べられるんでしょと思っていた私も同罪なのか。

 

なごブログ 2025.04.14 『♣️』

新メンバーオーディションの開催に際して書かれた、「チャイムは嫌い」から始まるこの一遍。存在することに理由を求められ続ける世界において、内側に留まることも、外へ出ることも、ともに居心地の悪さを伴うものであるという経験を語っています。授業時間という柵から解き放たれた自由時間で、何もすることがない居心地の悪さから始まり、そんな気持ちを無視するかのようにある「子供は自由時間が好きでしょ」という常識に対して敵意を向け、そしてそういった決めつけを自分もしているのだという自己批判へぐるりと向かう。内へ外への反復が見事な、お気に入りのなごブログです。

このように、なごブログでは、独特な語彙によって「自分に本当に起きたこと」だけが書かれており、その言葉は多くの余白を伴った形で読者に届けられます。これが、なごブログの構造的な強みであったのかもしれません。もともと不思議な質感を持つ西條の文章を、読者は一文一文、時間をかけて目で追っていきます。そこに書かれているのは、感情を過度に強調しない淡白な経験の記述であり、読み手はその余白、文章の外側にあるものを想像することになります。

このとき、ファンは西條和に直接的に共感しているというよりも、西條和が立っていたグループの中心から見える景色を、部分的に借り受けているのだと考えられます。彼女の独特な感性を理解しようとするのではなく、あくまでもファンはファンとしての主観を保ったまま、西條の立つ位置から見える景色、西條の言葉によって語られるグループの履歴に触れる。その過程で、同じ履歴を共有しながらも、西條の視点との間にある不一致や距離が感じられるのです。

このなごブログに表れている構造——内側に向かいながら、同時に外へと差し出されている「開かれた内密性」こそが、西條和というアイドルの中心にあった魅力であったのだと思います。

 

 

光:堀口悠紀子の線

イメージの全生命は、きらめく光のなかにひそみ、またイメージが一才の完成の所与を超越する事実のなかにある。

ガストン・バシュラール『空間の詩学

商業アニメにおいて、アニメーターに求められているのは、ほとんどの場合芸術家として個性を表現するような仕事ではありません。ひたすら「他人の絵」を描いて、1枚1枚の絵が並べられているということを感じさせないように、動いているように錯覚させる仕事。キャラクターと物語の存在に違和感を持たせないための仕事です。

特にキャラクターコンテンツをアニメでやることにおいて、その支えとなっている仕事はしばしば原作絵再現度論争が起きるほどに注目されています。キャラクターデザインや(総)作画監督は、その責任を大きく担うポジションです。絵が連続して映ることで成立するアニメというメディアの、連続性を保つ役割。その本来の仕事は「キャラ似せ」というだけのものではなく、キャラクターの存在に不要な違和感を与えないように絵の質……影や輪郭の質から芝居の質まで監督*2し、キャラクターが絵という形で存在することを保証します。そして、その保証無しに存在の確かさを感じることは難しく*3、個性豊かな表現の根っこのところで本質を見つけられなければアニメーション的な楽しさに支配された鑑賞になり、キャラやその物語に触れることを妨げることさえあります。

それはもはやインフラ整備という感じさえします*4。ただ存在を維持するための努力があり、そこでは何事も起きず、いや、つつがなく何事かが起きています。目の前で過ぎ去る一瞬がそういった途方もない仕事により成り立っていて、一瞬が積み重なった時間の中にキャラクターの振る舞いを見つけることができているのです。

 

どういう意図で堀口悠紀子さんにキャラクターデザイン(原案イラストからデザインを統一する仕事)と総作画監督を任せたのかは分かりませんが*5、「絵の女の子」をアイドルとしてプロデュースするぞと考えたとき、堀口さんの仕事より頼れるものはあんまり思いつきません。

で、堀口さんの絵を語らなければいけないのですが。俺は絵のことが何もわからないので、ここではインターネット空間でよく見つかる「やわらかさ」という表現を手掛かりに考えていきたいと思います。

私の絵はゆがみが強くてかっちり感がないので、どことなくたどたどしさが出てしまうんです。それは弱点でもありますが、ポジティブに捉えればその粗さがキャラの生っぽさに繋がるとも考えていて、特にみうに関してはそういったことが生きるのではないかと思っています。

堀口悠紀子 22/7 Artworks』

自身の仕事をそう評する堀口さん。「やわらかさ」は線の「強いゆがみ」「たどたどしさ」と近いところにありそうで、「かっちり感」はその反対の概念と考えられます。

早くそして大量の絵を描かねばならない商業アニメにおいて、普通、線は閉じて描かれます。後工程の処理を行うには、領域をはっきりと区切っていた方が都合がいいからです。必然、線は領域内外の明確な境としての固さを持つことになります。そのような殻としての役割だけを思えば、内側と外側が定められて出来た形はどれもかっちりとしたものになりそうですが、実際はそうではありません。形はそれぞれ「運動性の予感」を持つからです。

運動性の予感とは、具体的には「ふわりと展がっている」のか「きゅっとまとまっている」のかというような曲率が示す広がり、あるいは細さ(緊張)や粗さという面的な性格などを使って、その形の内にある力を表現することだと考えています。バネがギュッと押し込んでいるみたいに、大きな力を秘めていれば、そのぶんだけ大きく動きやすいだろうと予感できる。動かないものの中に動的なものを見出せるというのは絵の面白いところですし、また実際に動かすことを考えるアニメでは特に意識されているところなのではないかと思います。

 

では、堀口悠紀子の「やわらかさ」とは、この「運動性が高そうな感じ」のことなのでしょうか?

おててモチモチ モチモチ モチモチおもち〜

そうかもですが、もうちょっとだけ考えてみましょう。

 

アニメーションノートには作監修正前後の素材が載っており、堀口さんの「らしさ」を足す仕事をハッキリと見ることができます(見どころ満載のこの本において最も価値の高い部分なので是非見てください!)。

一番あちゃーと思う時は、作業後に原画さんの意図に気付いたり完成後に余計なことしちゃったかと反省する場合で、その時は穴があったら入りたい気持ちでずっと引きずっていますね。

『22/7 あの日の彼女たち Animation note』

堀口さんの”らしさの修正”については、計算中の記事で少し触れました。「果し状じゃない」感じと若林監督が表現していたように、堀口さんの仕事には、素材に対する必要以上の介入を避ける姿勢があると感じます。

これは、アニメーターという「ひたすら他人の絵を描く仕事」の職人性とも関係があるように思います。堀口さんの仕事とは、堀口さんの絵を描くことではなく、そのキャラクターを描くことです。そこではキャラクターに奉仕することが求められていて、キャラクターの個性に痕を残してしまわないように、そっと線を触れさせる。そんな堀口さんの仕事を想像したときに、もうひとつの「やわらかさ」が見えてこないでしょうか?

キャラクターの個性をふわりと包むような線。その形の愛らしさはもちろんのこと、形が伝える込めた力の大小や向きは、その子らしい仕草を新鮮に表してくれます。堀口さんの線の、仕草なども含む動的なキャラクター性を損なわないこの追従性——そのままのかたちを壊さずに描き出すために十分な弱さで相互作用する光が、堀口さんのゆらぎのある輪郭にフィットする線の「やわらかさ」、その触れかたの本質なのかもしれません。

 

 

西條和堀口悠紀子の浸透するところ

秋元康が与えた場に置かれて、西條和の緊張、内密は、彼女のアイドル性としてプロデュースされることとなりました。西條和のたっていた場所……それは一般に言う"センター"とは少し違った、「滝川みう役」という、デジタル声優アイドルグループならではの形を持った場所です。

堀口 ちょっとひとりになりたいときに行くのがまさに非常階段だったんですよね。そのことを思い出す詩だったので、情景が湧き上がってきましたし、絵に気持ちがのりました。

西條 私も非常階段によく行っていたんです。みうちゃんだけでなく、堀口さんとの共通点でもあったんですね。

堀口悠紀子 22/7 Artworks』

月刊ニュータイプ2017年4月号、連載「あの日の彼女たち」の第1回。堀口さんによる滝川みうの3つ目のイラストは、秋元康の詩とともに発表されました。ひとりになるために非常階段に避難するふたりが、秋元の詩で合流しているこの1枚は、滝川みうという存在を非常によく表現している1枚です。この頃にはまだ配役は発表されておらず、「”私ではない”最後のみうちゃんとして印象に残っている」と語る西條と合わせて、堀口悠紀子西條和の接点と見ることができます。

 

当て書きではなかったことが不思議になるくらい、堀口悠紀子滝川みうに込めたものと西條和は共鳴していました。さかのぼれば、二人の結びつきはオーディションの頃から始まっていたのです。

「無意識の自己防衛」

滝川/西條がよくやっている、この表面張力高めのギュッと身を縮めるポーズ。西條和はオーディションに応募する時、初期原案の滝川がしている手を胸の前で組むポーズをみて、「この子ならがんばれるかも」と滝川を選んだそうです。これを描いた堀口さんも、学生時代の写真を見返したら同じようなポーズをしていたと語っており、こういう仕草に共通点があったということは、ただのほっこりエピソードにとどまるものではありません。

「自身を奮い立とうとしているところ」

堀口さんも「自身の心の一部を分けた分身」と言っている滝川みうという存在、その仕草を通じて結びつきあった西條和という存在が、その線の内側を密にするという構造。西條も堀口さんも、どちらも己の分身として滝川みうと接していたのです。

堀口さんの線のフィット感が滝川みうを損なわない……ということと同じくらい、西條和の内密性が堀口悠紀子の線のやわらかさを際立たせていたのかもしれません。それぞれの仕事が、お互いの一部が相互に浸透しあったところに存在する滝川みう。その詩的な実在は、存在することの幸福で強く輝いているように見えるのです。

 

 

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おしまい。

 

 

 

*1:西條和のサイン↓は、提出したとき流石にスタッフも一瞬戸惑ったものの、「まあ西條だしいいか」とそのまま通ったらしい。みたいなエピソードが結構ある。

*2:ただし、普通は監督や演出(エピソードディレクター)の要求が上位にある。

*3:とはいえ、これはもう古い考えだと思う。絵の記号性をよく使えば絵柄が異なっていても個々の表現を繋がことができ、ファンアートや絵柄の違いで生まれる幅のある表現により存在としての柔軟な強さがあります。

*4:主にアニメーター、つまりキーアニメーションやインビトウィーンなどの絵を描くセクションのことを話していますが、もちろんアニメ制作では各種設定や背景美術、コンポジット、音響などなどなど、どの仕事も欠かせないものであることを努努忘れてはいけない。

*5:あの伝説的PV『あの日の彼女たち』とは言わないが、月刊ニュータイプの連載みたいなのをバシバシ振ってキャラコンテンツやるんやろなぁ…と思っていたらそういうのはほとんどなくて、もしかしてネームバリューだけで堀口さんにキャラデザと作監を…!?と疑っている、が、疑いたくない……

最近みたアニメと触覚の話

「触れる」ことにある確かさに自分はトリツカレていて、どういうことかというと、こういうことです。

原子間力顕微鏡測定のイメージ*1

ああ確かに、極めて細い指で走査していけば、それ以上に形を形として見ることができる手法はないかもしれない。もっと直接存在を見たい、もっと細く、もっと弱く、触れる……そう欲望していくうちに私のイメージの先端は、その接触点はだんだん点の本質を取り戻していき、そして敏感になっていくのでした。

 

 

映像の触覚

もっともっと精緻にアニメを観ることができるようになれればいいなと思いつつ、そんなことはなかなか難しい。おれはまだ、ただ「見る」というところから抜け出せていない……と悩んでいたところに「触覚」というキーワードが天啓しました。これから喋ろうと思うのは、アニメを「触れるように見る」ということ、そこで拡張されている触覚について思ったことです。

絵画やCGなどにも共通して、質感の追求は多くの人が興味を持って取り組んでいることと思います。硬いのか柔らかいのか、つるつるしているのかざらざらしているのか、光の反射を操作して、映像においては音を用いてみたりして、触覚にまつわるものを想像させる試みはいたる所に見つけることができると思います。

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触覚されるものといえば、硬さや表面の凹凸、粘着性、摩擦、はたまた温度など、モノ自体の性質や接触している現場、境界における物理などの様々な情報が合わさって質感を作っているわけです。その複合的な感覚は触覚の記憶を呼び出して私たちの肌に映し、より身近に作品世界を感じさせます。ものすごく画面に没頭しているときの、あの肌の緊張、覚えがないこともないと思います。私たちは全身で虚構の確かさを感じとるのです。

 

 

触れるように見る

いちばん分かりやすい「かたい/やわらかい」を考えましょう。これは主に触れた時の力の応答、あるいは変形の大小で測る性質です。変形ということは、かたちとうごきの両方をデフォルメ可能なアニメーションがドンピシャで得意な領域です。

試しに、エヴァ全部の中で一番好きなシーンを使って語ってみます。EoEの綾波がわんさか襲ってきてみんなLCL化するところ、触覚的にすごく面白くていいですよね。

人の形として固まっていたものが、次の瞬間人だったたきと同じくらいの体積の液体に変わって、しかもその液体はすごくシャバシャバなんです。その質感の移行が素晴らしく滑らかなので、なんと見事なアニメーション・パワーなのだろうと見る度に感動できます。

ここでは固い感じからシャバシャバな感じへの移行が、人間存在の内側へ想像力を向けさせ、また同時に人の形を支えていた構造をイメージさせてくれます。ちっとも粘性のないあの頼りなさは丸ごと存在の内側への不信感へと導き、そうであるなら逆に、さっきまで形を支えていたものはなんだったんだろうと想像するわけです。さっき見たことによれば、人はほぼ同じ体積のLCLに変わってしまったように見える。それを包んでいた水風船のゴムよりももっとしっかりした構造、あのシャバシャバした質量を支えていた極めて薄い殻のような質感……というここの、質感と観念との見事な合体。

 

こんな感じで、視覚情報が触覚的な感覚を呼び起こすこと、そしてそれが抽象的な観念まで繋がっていくということはアニメーションの得意とするところです。というか、アニメーションの目的とはかたさなどをモノに付与して物性をデザインする……「触覚の創造」にあると言ってもいいかもしれません。

 

 

手を伸ばすように見る

ほとんどの場合において、「触れる」ことは「見る」ことよりも近い距離での相互作用を扱います。スーパー・アニメーターによるゴリゴリの分かりやすいアニメーション・パワーがあればするりと接近することも可能でしょうが、アニメ全部観るくんにとってはそういう例ばかり溢れているわけではない。あなたは描かれているものの質感、真実を得るために、何がどのように描かれているのか確かめるように見る、画面の向こうへと想像の手を伸ばさなければならない。

 

『青のオーケストラ』の舞台となる海幕高校は生徒数2000人規模のマンモス校。その内部も学校なのか?という感じでストラクチャー!していて、サラっと映すだけでも画になります。

ここで過ごしている生徒たちと比べて、学校は極めて巨大という印象をうけます。生徒たち個々人の青春ではびくともしないような巨大さは、よく用いられる青の色使いもあいまって、冷たく無機質な感じを残します。

かといってかれらの青春ひとつひとつを拒絶しているのではなく、ただ巨大なものとして在る……という雰囲気なのも良いですね。

これらの画面設計は、海幕高校オーケストラ部が全国常連校であり、ここ数年は連続して金賞を取っているという設定と合わせると、非常に豊かな質感を見出すことができないでしょうか。3年生の引退した2期では強豪校としてのプレッシャーがよりハッキリと現れ始めます。そのような環境の中で、受験や人間関係などの個人的な問題が反応していく。ここで学校の巨大さはかれらへのプレッシャーの表現としての働きを保つだけでなく、個々人の青春をしっかりと受け止めて緩衝してくれる……そんな優しい働きをするものでもあります。

 

『不器用な先輩。』第5話、台風の中帰宅した先輩が傘をシューズボックスに掛けるところ。出来がいいわけではないんですが、失敗したとしてもこの動きを入れようというところに魂を感じます。運ぶ、置く、寄せる、とひとつひとつの動作をじっくりとみせる丁寧さ。ここのゆっくりとした時間はやはりしっとりとした印象をもたらしますし、もちろんそれは後輩への気持ちの質感に他なりません。傘立てではなくシューズボックスにかけているという、そこまで丁寧というわけではない先輩の生活感もいい仕事をしていて、なんとも情感のあるシーンです。

 

 

「はやい/おそい」という質感

さきほど、「おそさ」が「しっとりとした質感」を導いた例が出てきましたが、そんなふうに質感の原形のような働きを持つのなら、そもそも「はやさ」そのものが質感になりうるのではないかと考えています。

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これはたぶん……「はやい」アニメです。速さに触れたことがないのでしっかりと理解しているわけではないんですが、はやい。

まず、子供の成長の早さを描いているということ。この一晩でビンゴは母という大きな存在から離れてひとり夜明けを迎えます(もちろんこの日を迎えるまでには多くの準備があったのだと思いますが)。そしてこの母から離れる孤独な旅が、太陽系を舞台に繰り広げられていくこと。宇宙的なスケールを移動する速さで物語は展開していきます。またこの宇宙の旅が、夢という流動的なイメージで描かれていることもはやい感じがあります。卵から始まった惑星のイメージが、シーツや父親の身体に影響されてどんどんかたちを変えていく。

夢の中でのダイナミックなできごとに負けず劣らず、現実の世界でもいろいろなことが起きていて、親たちは寝る間もなく子どもふたりのお世話をしている。見守られながら、子どもたちはそれぞれの夜を明かす。私たちはかれらのイメージを渡りながら、夢と現実、親と子の境界を越えて移動する。このときに受ける加速のようなものが、はやさの質感をもたらしているのかもしれません。この”はやさ”に触れてみようとすることは、触覚が拡張されたような、そんな感じがして楽しいですね。

いい温度

 

 

最後に、描き手の触覚を想像すること

アニメにおける最も重要な構成要素は「線」です。これはたぶん間違いなくそうです。完成した映像においては、色や音などの効果の方がいかに大きかろうとも、大抵の場合、その始まりは線であったはずです。

目の前には形があり、その形を成り立たせるような線の緊張があります。それは要求と技術の吊り合いであり、モノの本質とそれを捉えようとする視線との境界です。少し時間が進み、流れたり留まったり、ふくらんだり縮んだりして、そこにもやはり変化に応じた力を考えることができる、そしてそこにもやはり何か接触を想うことができるはずです。

動的なものを考えるなら、やはり動的な作用……造形を想像するべきなのかもしれません。境界を描き出すときの触れ方、その物理を、土を固めるときの冷たさや指の弾性を含めた相互作用として。そしておそらく、そういうときは確かな触覚を使って見ているのだと思います。たまに強く触れすぎているような気もしますが……まあアニメは詩的に”かたい”ので、見返す時には元の形に戻っていると信じ、恐れず触れていっても良いのではないでしょうか。